祖母、母、四人兄妹で
1955年、札幌市、今の清田区真栄地域の農家に4人兄妹(兄3人)の末っ子として生まれました。
小さい頃は、ばあちゃんっ子で、いつもばあちゃんの後をついて歩いていました。畑の野菜をおかずにし、トマトやスイカを井戸水で冷やして食べるなど、自然のなかで育ちました。
昔の農家ですから、田植え、稲刈り、畑の草取り、リンゴの袋かけ、家畜の世話(馬やニワトリ)など、何でも手伝いました。
家族総出の農作業の思い出が、「農業の明るい未来を必ずつくりたい」という強い思いにつながっています。
高校(バレーの試合)
高校、陸上大会 グランドで
高校時代のニックネームは“パンダ”。似ているといわれていました。高校、短大をつうじては、「バレーボールにかける青春」でした。
高校のとき近くに実業団チームの体育館があり、ときどき練習試合をさせてもらったことが縁で、短大に入ってから実業団のチームに加えていただき、9人制の全道大会で優勝。全国大会にも出場でき、奈良まで遠征しました。
学生生活のなかで自治会活動に参加。負担の重い学費をさらに上げるというやり方に納得ができず、農家ではやってゆけず離農した両親の苦悩や、悲惨なベトナム戦争をみて社会の仕組みに関心をもちました。
そして学生自治会や民青同盟の活動をつうじて、命がけで戦争反対を貫いた日本共産党を知り、日本共産党への入党を決意しました。
民青同盟では、学費値上げ反対運動から文化・芸術・スポーツ祭典まで青年の要求ということでは何でもやりました。
都立美術館で絵画や写真の展覧会を開いたり、詩や小説、短歌などのコンクールも企画しました。学習会といえば「いま考えよう−女だから、女のくせに」といったタイトルで男女平等を考える会を何度もやったものです。ちょうど、均等法が制定される頃だったのです。
ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名運動では、被爆の実相を語り広げる活動に、本当に情熱をかたむけて取り組んだ思いがあります。
民青でヒロシマ・ナガサキアピール署名
若い頃は、共産党員になったことで父とよく口論に。たびたび父は「何でお前だけが世の中に逆らうようなことをするんだ。世の中の流れに流れていればいいんだ」と口にしたものです。
でも、話していく中で父の思いが“子どもに苦労させたくない”という親心にあることがわかりました。
1986年、はじめて参議院選挙の候補として北海道に帰り、地元で演説をしたとき父が応援にたってくれました。
「娘たちの目指す社会に早くなってほしい」という父の言葉には、涙があふれてしまいました。
船沈没、油もれ事故で えりもの海岸
96年 網走漁協でサケの水あげ
豊浜トンネル事故現場で
98’参院選
2001年参議院選挙で初当選するまでの15年間、国政選挙の候補者として北海道をくまなく歩きました。候補者として活動をはじめたころ空知地方は、炭鉱閉山の嵐が吹き荒れていました。
日高地方、えりも町では、韓国大型トロール船での漁業被害に抗議する漁民集会。サケ・マスの価格暴落に対する漁民の怒りの声をうけとめ、セーフガード発動をもとめて水産庁とも交渉をかさねました。
道内7割の漁協と懇談するなかでセーフガードの要求は共感をよび、道の漁業関係者全体の運動にひろがりました。
ムダな公共事業、自然破壊の典型として批判をあびた千歳川放水路、士幌高原道路計画。何度も現地に足をはこび地元の方たちや自然保護団体と力をあわせて計画中止に追いこみました。
大型店の出店によって大きく打撃をうける商店街のみなさんと対話し、街づくりを考えるシンポジウムも連続開催しました。
道民に大きな衝撃を与えた豊浜トンネル崩落事故、有珠山噴火、地震災害などでは、すぐに現地に走り国会の児玉衆院議員と連携して被害救済に全力をつくしました。
2001年の参院選挙で国会に送っていただくまでの15年間の候補者活動で、北海道の、そして全国の皆様に厳しく暖かく励まし教えていただいたことが、いま国会議員としての活動の大きなささえになっています。