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命だいじに、平和な世求めて

「しんぶん赤旗」北海道版2001年1月23日〜25日

三浦文学から北海道の心を語る

歌人、三浦綾子記念文化財団理事長 三浦光世さん
日本共産党参院比例代表候補 紙智子さん
 日本共産党参院比例候補の紙智子さんは、1月初旬の晴れた日に、旭川市神楽見本林にある三浦綾子記念文学館を訪ね、三浦光世(みつよ)さん(歌人、三浦綾子記念文化財団理事長)と対談しました。綾子さんの思い出から、『母』、教育問題、森首相の「神の国」発言、日本共産党第22回大会にいたるまで、自由闊達(かったつ)に語り合いました。

『母』は私が家内にすすめたもので(三浦)
小林多喜二の家庭は明るく、温かい(紙)


三浦光世さん
 三浦綾子さんを、1998年にお見舞いしたときに、本にサインをいただいて、玄関のところまで、立ってお見送りしていただいて、もう感激して...。それから、しばらくしてから、ニュースで亡くなられたことを知り、びっくりしたんです。
三浦 お世話になりまして、ありがとうございました。

長い間ずーっと付き添われて

 三浦光世さんがお書きになった『綾子へ』(角川書店)という本を読ませていただきました。三浦さんご自身が直接、ずーっと付き添われて、それこそ、長い間、綾子さんを見られてきたんだなあと思いました。
三浦 1992年に難病のバーキンソン病になりましてから、絶えずそばにいないと...。それ以前からも、仕事柄、四六時中、ほとんどいっしょにいたわけですけれどね。
 私が1998年に、綾子さんをお見舞いしたときは、ここ(三浦綾子記念文学館)が、ちょうど、あしたから開くというときでした。夫である光世さんがそばにいて、本当に二人三脚でこられたんだと改めて実感しました。来舘した方の感想文も、そこに感動されている方が多いなあと思いました。

私を非常に大事にして...

三浦 もっと、ああしてやればよかった、こうしてやればよかったという思いが残っておりますけれども、家内は、私を非常に大事にしてくれました。
 一つの本ができあがるときに、必ず一言ずつ綾子さんのことばが光世さんにあてて添えてありますよね。
三浦 はい。個人的に私に書いてくれていたわけです。それを去年、講談社からエッセーとあわせて公にさせていただきました(『遺された言葉』)。
 私自身が、一番最初に、三浦綾子さんの作品にふれたのは、まだ小学生のころです。ちょうど、テレビで「氷点」が始まっていたんですね。
三浦 そうですか。
 一代目の「陽子」役を内藤洋子さんが演じていたときに見たのが最初です。その後いろいろ読みましたが、感銘深く読んだのは、作家・小林多喜二の母を描いた『母』、そして、軍国主義化の教育問題を扱った『銃口』でした。
三浦 そうでしたか。

「母」をとおしすうーっと

 小林多喜二という方は、私たちから見ると、日本共産党の先輩で、激しい弾圧のなかで、すさまじい人生を歩まれました。ふだん、女性のなかでも、「なかなか難しくて、読みたくないわ」という人もいるんですけれど、でも、「母」をとおしてみると、すうーっと入っていけるんですね。『母』はずいぶん、たくさんの人に読まれて、演劇にもなりました。
三浦 そうですね。前進座のいまむらいづみさんが多喜二の「母」を演じてくださいました。この小説は、多喜二のお母さんを書いてもらえないかと私が家内にすすめたものでした。反響も多くて、みなさんにずいぶん喜んでいただいたので、よかったと思っています。
 ええ。
三浦 はじめは、綾子はだいぶためらってましたけれどね。「共産主義のことを、これから改めて学ぶには、ちょっと、その体力もないし...」といっていました。けれども、まあ、いろいろ考えて、ああいう語り口になりましてね。秋田弁の方言なども勉強しようかなどと話し合ったこともあるんですよ。
 そうですか。
三浦 秋田弁そのものとなりますと、読む方が大変だと思いますし、そんな話し合いをしているうちに、「ああ、いいことを気がついたわ。私のおばあちゃんのことばでいくわ」と。家内には、秋田生まれの母の母がいまして、そして、小樽にいたわけです。
 あ、そうだったんですか。
三浦 多喜二の母のセキさんは、ご自分のことを「おれ」とか「おら」とかといっておられたらしいです。でも文筆に書くとなると、ちょっと刺激が強いかということで、しかし「わたし」じゃ上品すぎる、濁らして「わだし」くらいがいいのではということになって...。
 直接、取材にいかれて、いろいろ話を聞かれたんですね。
三浦 秋田県の大館(おおだて)にも参りました。それから、東京の三吾さんのお宅にもうかがいました。
 小林多喜二の弟さんですね。「母」の最後のところで、いまむらいづみさん演ずるセキさんが、詩を読みますね。
三浦 ええ。
 多喜二の亡くなった二月がきたという、つらい思いをつづったものです。この短い詩を、本当はイエス様にみせようと思っていたけれど、小樽にいるクリスチャンの牧師さんに見てもらう。すると、牧師さんは、その詩を見て、黙って窓の外を見ている。どうしたのかと思ったら、泣いていて、大きな聖書を開き、「イエス涙を流し給う」というところをお母さんに見せた...。印象的な場面でしたね。

涙を流しながら 口述したんです

三浦 みなさん、ほんとうに感動してくださいましてね。もちろん、綾子も涙を流しながら、小説を口述はしたんです。その牧師さんは、多喜二のお姉さんのチマさんが所属していた小樽シオン教会の近藤治義(はるよし)先生ですね。
 ええ。
三浦 私は、綾子にあれを書かせたのは私の生涯の一番の仕事だと思います。
  『母』の「あとがき」に、綾子さんが最初は、夫からいわれて取材を始めて、書き始めたけれど、書くうちにだんだんと理解できていって、情熱をこめて書くことができたと書いておられます。実際に取材をすすめるなかで、小林多喜二の家庭、親や兄弟を含めてとっても明るくて人間的で温かい、と...。
三浦 感動していましたね。とにかく、『母』を書いてくれと頼んで十年待ちました。心配したんですけど、とうとう書き下ろしてくれました。 

子どもを大切に∴鼕ムした姿勢(紙)
教育家の原点ふまえている(三浦)


 綾子さんの『遺された言葉』のなかに、『泥流地帯』の口述筆記で、光世さん自身が涙を流しながら書いてくれたと書いてありました。
三浦 そうですね。『泥流地帯』は、私の生い立ちなども、参考にして書いてあるところもあります。私は、苦難というテーマを胸において書いてほしいと頼みました。

あるべき教育描かれている

 『泥流地帯』や『銃口』には、教師が登場して、子どもたちと接する教育の場面がありますね。
三浦 そうですね。
 三浦綾子さん自身のなかにも、教育は、こうあってほしい、こうあるべきだ、みたいな考え方が出されていますね。
三浦 そうですか。たとえば、どのような...。
  『泥流地帯』に出てくる子どもたちは、家庭の環境も違って、町の子どももいれば、農家の子どももいます。朝から親の手伝いをしてくる子どもは学校に遅れてくるけれど、それをただ怒る先生と、そのことを理解したうえで接する先生とが描かれているんですね。
三浦 そうですね。
 いま、現実に、教育の問題で、非常に難しいものがあるわけです。でも、どんなに時代が変わっても、子どもを大切にするという教育には変わらない問題、テーマがあります。綾子さんの考え方にそれが貫かれていますね。
三浦 綾子は、教師を体験しています。とにかく子どもをかわいがった。指導力もあったようですが、問題意識はいつもあったでしょうね。
 はい。

基礎の能力は必ず教えた

三浦 いま、基礎の能力だけは、ぞんぶんに与えなければいけないというお声を聞きます。その点、綾子は、それをよくやっていたといえましょう。大体、無理はさせないで、学校へきて眠る子どもには眠らせてはいたけれども、これだけは覚えさせなければいけないという問題は、自分が残って、その子どもも残して、あるレベルのことだけは、必ず教えたといっておりました。
 ええ。
三浦 その証拠といってもいいですがその姿勢は結婚して二年くらいたって始めた雑貨屋でも貫かれていました。雑貨屋を始めて一年ぐらいたったころ、家内が風邪をひいて、私も風邪をひいてしまった。そこへ、私の兄がきまして、「なんだ、二人ともまくらを並べて討ち死にか」「だれかテコいるな」といいましてね。私の育った滝上(たきのうえ)から私の姪(めい)の隆子(たかこ)をつれてくるかということになりました。姉の長女で、中学を出た子です。
 ええ。
三浦 ところが、隆子と二、三日話しているうちに、「あれあれ」と思うことがだんだん出てくるわけです。8+3=11がわからない。7+5=12も。答えが二ケタになるとわからない。一体どうしたのかと仰天しましてね。よく聞いてみたら、六`の道を学校へ通っていたわけです。沢も深く、曲がりくねった道を小学校へ通って中学にもいった。学校へいったら疲れ果てる。早生まれで病弱で、毎日寝てしまう。
 はあぁ。

興味をもたせ学ぶ喜びを

三浦 私は、これはひどい。大変だ、どうにもならんという態度でしたが、綾子は、このままにしておけないということを考えたわけです。小学校一年生の算数の本を一歩一歩、ずーつと教えて、基礎の国語能力も必要ですから、やさしい童話からだんだんと少年少女向きのものをどんどん読ませて、新聞にも目を通させる。ときには社説にまで目を走らせるような子になりました。聖書を読ませたり、そろばん塾にもやったり...。
 はい。
三浦 算数は、私がそばで見てて、「こんなやさしいものがわからんか」と大きな声をあげたり。大きな声あげられたって、頭がカッとなるだけですけれど、綾子はそういうことが絶対なくて、だんだん興味をもたせながら、解けたという喜びを味わわせるように仕向けていって、分数の掛け算くらいまでできるようになりました。私がいまだに読まない翻訳書の『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)も読んで、「叔父さん、これ面白いよ」なんていうまでになりました。綾子は、教育家の原点をふまえているところがありましたね。状況を全部つかんで、相手の基礎能力をあげることに努力したようです。
 そこが、すごく大事なことですね。
三浦 ええ、そうですね、教育は。
 『銃口』のなかに出てくる「綴り方」で、子どもたちの詩がでてきますね。すごくイキイキしていて、読んでてうれしくなってしまうようないい詩を教師が読みながら、その子の家庭の状況だとか、どういうことでいま悩んでいるかとか、そういうことを掌握しながら、適切なアドバイスをしていく、心をつかむ、信頼関係をつくっていくあたりが、『泥流地帯』でも出てくるし、三浦綾子さん自身も強調されていたことだと思いますね。
三浦 そうですね。『銃口』でも、朝、遅れてきた子どもを、教師が、新聞配達をしているんだぞとみんなにいって聞かせる場面がありますね。みんなの大事なポイントだけは、しっかりふまえて教えようとしていたようです。

社会の見方に鋭い視点

 やはり、肝心要(かなめ)の社会にたいする見方だとか、そういうところでも、すごく鋭い視点を感じます。最近、読んで感動したのは、北海道革新懇話会20周年に寄せて、光世さんが、森首相の「日本は天皇を中心とする神の国」という発言をめぐってのお話です。
三浦 ああ、恐れ入ります。やはり、日本を大変なことをしていた時代に戻すのがいいというふうに考えている方がずいぶんおられるのでしょうか。一つの絶対的な権力をもたせて、そして、その上官の命令は、「朕(ちん)」、天皇陛下の命令だぞといって、有無をいわせずやらせるとやりやすいのかもしれませんけれども、それは、あってはならないことだと思います。一回実験ずみですからね。
 はい。
三浦 「有無をいはせず神としてあがめしめ国滅びき」
 国は滅びていないというかもしれませんけれど、大日本帝国はそうなったわけですよね。
 「なんにまたおしすすむ人間神格化」
 というゴツゴツした短歌をつくったこともありますけれども...。

命の大事さ感じとってほしい(三浦)
若い人が作品に励まされている(紙)


 去年の暮れに、私の家族でいろいろ話をしたんです。私の父が、今年でちょうど八十歳になります。
三浦 ほおー、そうですか。

父が初めて戦争の話を

 父は、年越しの夜に話をするなかで、いままで聞いたことがなかった戦争の話をしてくれました。戦争中は、飛行機の整備をやっていたんですね。台湾で、毎日、戦地に飛んでいく人たちを送り出すんです。一人ひとり手をふって、送るんですけれど、それが20代になるかならないか...。
三浦 うーむ。
 もう、父が見ても、ほれぼれするような、それも教育をうけてきたような若者たちが毎日、何十機という飛行機で飛ぶんです。台湾ですから、飛び立てば十分後には戦地の真っただ中なんですね。死ぬかもしれないんだけど、どの青年もみんな飛び立つときに、ニッコリ笑って手を振っていくというんですよ。
三浦 ああぁ。
 送り出して、二度と帰ってこなかったというんです。だから、「もし、そういう人たちが生きていたら、なにほどの仕事をしたかと思う」と父がいいました。
三浦 ほんとうですね。
 「二度とこういうことを繰り返してはならないな」という話を初めて父から聞きました。
三浦 家内もそういう点では、軍国主義にたって子どもたちを教えて、天皇陛下のために、日本の国のために、男子生徒は戦争へ行って死ぬのよ、と教え込んだわけですけれど。そのために、挫折したわけですが...。そういう挫折感を、ずっと一貫して変わらずにもっていましたね。
 ええ。

幅広い人と平和の共同

三浦 ある年、新聞社の方に連れられて、中国から作家、エッセイストの方が三人ほど参りまして、私たちの家の客間にお通しすると、家内はすぐに平伏して、かつての日本が中国にたいしてとんでもないこと、悪いことをしたことをお許しくださいと謝り、おわびしました。中国の方は、「いえいえ、もう過きたことですから」などとおっしゃって、寛容なおことばをくださいまして...。
 ほんとうに、真心こめて謝罪できる日本でありたいなと思うんですね。
三浦 そうですよね。何が悪かったんだと開き直るのは論外ですね。
 去年の11月に、私たち日本共産党の第22回大会が開かれました。新しい21世紀に入るということで、どういう時代をつくっていくのか、平和の問題、二度と戦争を繰り返さないための方向について、多くの人たちが願っている方向で、どういう新しい日本を切り開いていくのかということで、いろいろ方向も出して、いまとりくんでいるんです。
三浦 そうですか。
 そのなかで、幅広い人たちと一緒にすすんでいこうと決めました。日本共産党にたいして、まだまだ理解がされていないことがあるんですけれども、やはり、幅広い人たちとの協力、共同を広げながら、実現に向けてとりくんでいます。世界を見渡せば、日本は戦後、たしかに戦争はしていないけれども、ほかの国で紛争だとか、飢餓で子どもたちが毎日亡くなっているとか、ほんとうに大きな視野で、そういう問題を解決していける方向で努力をしていこうと決めています。
三浦 なるほど。
 いろんな宗教者の方たちとも、大いに交わっていきたいんです。願っている方向は、人の命を大切にすることであったり、平和の問題であったり、自由にものを発想すること、信教の自由も含めて、大いに大切にしていけるように、うんと対話を広げていく努力をしたいと思っています。
三浦 ほんとうに、その方向で、大いに前進していただきたいですね。
 はい。
三浦 貴重な命をうけて、私たちは地上に生きているわけですけれども、大切な命を、戦時中のようなことや、しかも、飢え死にをするというようなことで失うのは、なんともいいようありません。一つひとつ、世界的な規模で解決していかなければいけないと思いますね。

記念文学館に感想たくさん

 そうですね。話は変わりますけれど、三浦綾子記念文学館は、98年から始まって、たくさんの人たちが来られていると思います。最近、若い人たちが非常にたくさん来るという話を聞いていたんです。
三浦 そうですか。
 若い人たちのなかで、三浦綾子さんの作品が読まれていますね。感想を書いてあるノートがいっぱい置いてあって、さっと見せていただきました。若い人が、すごく励まされて帰っていくなあと思っているんですけれども...。
三浦 「自分の人生をもう一度やり直してみようかと思った」と書いていく人もいると、去年の秋ごろ、高野斗志美館長から聞いたことがあります。何に感動してくださるのかわかりませんが、家内が、終始一貫、命を大事に、平和を求めて生きていたということが、どの作品にも、多少なりともあらわれているということでしょうか。そういうものを感じてくださるんでしょうね。
 はい。
三浦 家内が亡くなりましてから、若い方も家内の作品を読んでくださっているようですね。よく手紙が参りまして、いろんな苦難のなかにある方の手紙が参ります。将棋の羽生さんが、七冠王になった年に、そのころ非常に、内面的に苦悩を感じていたんだそうです。しかし、『氷点』を読んでふっきれたそうです。
 そうなんですか。
三浦 羽生さんは、新聞社のイベントで、旭川にくる機会があって、そのときに、「旭川へ行ったら、三浦綾子さんに会えるだろうか」といって、五年前(1996年)、家にきたんです。
 写真集にも出ていますね。
三浦 ありがたいと思っています。これ(三浦綾子記念文学館)が見本林にできた1998年は、見本林開設百年の節目の年だったんです。
 そうですか。
三浦 『氷点』を書くと決めた1963年、舞台をどこにするかということでここ(見本林)へ来ました。『氷点』の舞台にして取材には何度も来ました。
 何回も足を運んでほしい
 はい。これから、三浦綾子記念文学館は、どういうふうになっていったらいいと思いますか。
三浦 そうですね。なるべく、みなさんに見てもらって、何かを感じとって、作品にじかにふれていただくのがいいと思います。家内は、「もう一度、来たいというような文学館になってほしい」といってましたね。何回か、足をお運びいただいて、伝えていただけると、いいなあと思います。
 そうですね。
三浦 そして命の大事さをほんとうに感じとっていただけたらと思いますね。
 ほんとうに、ありがとうございました。
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