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 2008年9月1日 「一揆」の時

 富山県党主催の農業再生シンポジウムに参加しました。富山市内の水田は、今まさに稲穂が頭をたれ、刈り取りを待っている状態でした。
 富山県農協中央会専務、農業会議事務局長、県の農林水産部農産食品課長、農業法人協会会長などがパネリストとして参加し、「共産党主催のシンポに、よくぞ大物をそろえた」と話題になりました。「食料自給率向上への国民的共同に党派の違いは関係ない」という精神です。
 富山県は、九割がた兼業農家、米生産を中心にしてきただけに、米価下落は大きな打撃です。働いて得た収入で、米作りの赤字を補てんして農地を維持してきました。「自給率を上げるには、米だけでなく野菜や麦など増やして地産地消をすすめていきたい、そのためにも消費者のみなさんの協力を」と率直な訴えがされました。
 「実は私の祖父母は富山県の出身で、北海道に開拓で移住し、農業を営みました」と自己紹介すると、「へー、そうだったの!」と一気に距離感が縮まりました。
 子供の頃に聞いたおばあちゃんの話を思い出しました。「十三才の頃に大阪の紡績工場に働きにでて、十七か十八才の頃、一度ふるさとに帰った時、米騒動でムシロ旗がたった」。当時、漁村の女性たちが立ち上がり「越中女一揆」として全国に波及し、当時の内閣を追いつめるまでに発展した歴史を思いおこし、食料・農業をないがしろにする政治を転換するために国民の共同のたたかいを再燃する時だと思いました。

2008年7月28日 漁業者の「ストライキ」が政治を動かす

 「みなさんが日頃から現場の声を聞いてこられていることに敬意を表します。私も地元の浜で漁師のみなさんの声を聞き、まったく同じ思いをもっています。限りなく直接補てんに近い形につながるように研究しています」。

 燃油高騰対策をめぐる七月二十四日の北海道党の政府交渉での岩永浩美農林水産副大臣の答えです。
 この間のイカ漁の一斉休漁、続く七月十五日の全国二十万隻の一斉休漁という、今までにない規模での漁業者の「ストライキ」によって政府を動かしつつあることのあらわれです。

 「福祉灯油」の対策でも、それぞれの自治体で実行され、それが広がる中で国からの支援策を引き出した経緯がありますが、今回すでに、宮城県の気仙沼市が漁船漁業者に対して一キロリットル当たり一〇〇〇円の補助金(総額で三八〇〇万円)を期間をくぎって出すことを決めました。同じく宮城県石巻市でも、漁業だけでなく農業も対象に燃油代の一部補助の方針を明らかにしています。

 この動きが全国に広がれば「福祉灯油」の時のように国からの支援策につながる可能性が出てきます。ただし、これは当面の緊急対策であり、根本的には、ここまで高騰をまねいた投機資金の流入にしっかりメスが入らなければなりません。いずれにしても、これからの運動にかかっています。
 打開のために、党派を越えた運動に広げましょう!

2008年6月30日 国の農・漁業破壊と再生への共同

 六月二十七日、佐賀地裁で「よみがえれ!有明訴訟」の画期的な勝利判決が下されました。福岡、佐賀、長崎、熊本の有明海沿岸の漁業者二五〇〇人が国の諫早干拓事業で、有明海の環境が変化し被害を受けたとして、国に潮受け堤防の撤去や南北排水門の常時開門を求めて起こしたものです。

 判決は、漁業被害を認め、判決確定から三年以内に開門し、以後五年間にわたって開門を継続することを命じています。これまで漁民の訴えに耳を貸さず農水省は開門調査を拒み続けてきましたが、その姿勢について判決は「立証妨害」とまで言い切りました。ほとんどの新聞が、「農水省は重く受け止め、誠実に対応すべき」と指摘しています。農水省が控訴することは、断じて許されません。

二十九日は、党中央主催の「日本農業再生を考えるシンポジウム」が、岩見沢市で開催されました。一〇〇〇人もの参加者で、会場全体が一体となり熱気にあふれました。
 岩見沢市の稲作農家笹木昭博さん、黄倉良二きたそらち農協前組合長、太田原高昭北海道大学名誉教授、市田忠義日本共産党書記局長の四人のパネラーの発言を受け、会場からは次々と手が上がり、質問や意見が出されました。

 美唄市の桜井道夫市長も会場から発言し、「原油高騰による生産資材の高騰が農家をおそっている、額に汗する農家がまともに暮らせるように国が早急に手を打ってほしい、地方からも声を上げる」と訴えました。
 真剣な討論に胸を打たれました。

2008年6月2日 アイヌの先住民族認定を

 昨年の九月、国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択されました。
 日本政府はこの宣言に留保つきで賛成したものの、国際的に「先住民族」の定義がないことを理由に、アイヌ民族を先住民族とはいまだ認めていません。国連宣言を生きた文書とし、政府自らが一日も早くアイヌ民族が先住民族であることを認めてほしいというウタリ協会の働きかけが北海道出身の各党議員にされ、三月に「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」が、つくられました。以来、勉強会を行いながら、七月の洞爺湖サミット開催に向け、今国会中に衆参で国会決議を上げさせようと取り組んできました。
 北海道出身の共産党、自民党、公明党、民主党、新党大地に加え、社民党、国民新党、新党日本と、すべての政党が世話人に名前を連ね、決議文の確認をし、まもなく決議が上げられる見通しとなりました。
 一九九七年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が作られてから、アイヌの皆さんにとっても、先送りされてきた問題に踏み込み、前進させていくきっかけにしようとの熱い思いがわきあがっています。
 問題は決議を上げた後です。これまでの基本的なスタンスを変ようとしていない政府に迫り、決議をもとに、有識者懇談会を設定し、アイヌ政策の総合的で本格的な議論を進めていけるように、力を尽くしていこうと決意しています。

2008年5月5日 牛肉検査に問題あり

  四月二十三日、またしても危険部位の脊柱が入った米国産牛肉が見つかりました。昨年八月に輸入し、吉野家の冷凍倉庫で保管していたものを、加工する直前に箱を明けて見つかったのです。
 さっそく二十四日農水委員会で質問しました。「二〇〇六年、当時の安倍首相の訪米の際に、厚労、農水両省が、米国との協議で検査のやり方を、全箱検査から抜き取り検査に緩和した。その結果、昨年八月の輸入時の検査で危険部位が入った牛肉を見落としたということ。政府は、当該施設のナショナルビーフ社(カルフォルニア工場)だけ輸入停止ですましているが、全面ストップをし、米国に対してずさんな検査体制を指摘して、事態の解明を求めるべき。国内の検査体制についても見直すべきではないか」と質問しました。
 大臣は「遺憾なこと」といいながらも、「わが国の安全確保のシステムは、想定どおり機能を果たしている」と答弁。一瞬与野党の席から「それは、ないだろう!」とざわめきが起こりました。
 検疫でとめられずに国民の口に入る前で、かろうじて見つかったということは、検査のシステム自体に問題があるということです。脊柱という、見てわかる危険部位でなかったら、見逃し、流通して国民の口に入っているかもしれません。
 米国のいいなりに国内のチェック体制を後退させてきた自民・公明政府の責任は重大です。輸入を中止し、早急に検査体制を見直させるように、大きな声を上げていきましょう!

2008年4月7日 国会も選挙もまったなし

 札幌の大演説会を終えた翌日の五日、北見市と網走市の演説会に、宮内聡さん、渡辺ゆかりさんの両比例候補とともに参加しました。

 宣伝カーの呼び込みを聞いて参加したという人や、今回はじめて共産党の話を聞くという人も数多く参加していました。どちらの会場でも、候補者の二人が道内を駆け回るなかで生まれている変化や「年令で高齢者の医療を差別する後期高齢者医療制度を廃止しましょう」との訴えにうなずいて聞いていました。「道民のみなさんの声をまっすぐ届ける日本共産党の議席を、今度こそ!」という訴えに、「よし、わかった」の掛け声がかかりました。

 会場は熱気を帯びていましたが、国会もいよいよ、国会論戦が再開されました。選挙勝利にむけて、まったなしのたたかいです。

 網走の演説会に向かう途中、流氷が接岸していました。「四月に入ってから流氷と遭遇できるなんて」と、しばし沿岸に浮かぶ流氷に見入りました。アムール川から風に流され、ここまでたどり着いたのかと思うと、思わず「遠路はるばるごくろうさん」といいたい気持ちになります。地球温暖化の影響が、この流氷にも異変を起こさせているといいます。

 流氷は遠ざかると、オホーツクにも春がやってきます。宮内さん、渡辺さんと力をあわせて、政治の春を引き寄せるためがんばります。               

2008年3月10日 急いで夕張再建計画見直しを

 「積もった雪の重さに耐えきれず、落ちたプールの屋根は、今の夕張を象徴しているようだ・・計画の見直しを」との声が胸にささります。再建計画からちょうど一年、三月七日から宮内さとしさんとともに夕張に入りました。

熊谷桂子前市議の案内で、消防本部、再生市民会議を訪ね、住民のみなさん、人工透析の患者会のみなさんと懇談しました。「六十五歳以上の割合が四十二%をこえた夕張で、対策の中心にすべきは医療や介護。これまで夕張を支えてきた人たちが誇りを持ち安心して生きられるように、力を合わせないと」。「再建計画に人口流出を止める計画をぜひ入れるべきだ」と前に向かって頑張る市民の姿に、胸をうたれました。それだけに、借金だけは返させようとする計画の非情さが際だちます。

給与を三割も四割もカットされ「市民を不安にさせないように」と、二十四時間緊急出動に備えてきた消防本部では、「職場を去る職員が後をたたず、最低限の体制をやっと確保、どこまで持つのか」と苦しい胸の内が語られました。
人工透析の患者さんは、岩見沢市や千歳市、栗山町などに、一日がかりで通院しています。「診療所になっても人工透析はなくしません」と説明されていたにもかかわらず。

昨年、総務大臣は「弱者、お年寄り、子どもに配慮する」と発言していました。それならば、夕張の現実をこのまま見過ごすことは出来ないはずです。国会で取り上げて、計画見直しを迫りたい。

2008年2月11日 今、日本農業・食料に大きな関心が

 九・十・十一日と三日連続の「食料と農業」をテーマにしたつどい、シンポジウムが行われ、日高の新冠町、十勝の音更町、北見の旧端野町と走り、多くの人たちと意見をかわすことができました。

 日本の農業・食料は、このままでいいのかという強い危機感が、どこでも共通して出され、国民的な大きな関心の一つになっていることを痛感しました。新冠町では、飼料作物にとりくんでいますが、クマやシカの被害からどう作物を守るかを考え、悪戦苦闘の結果、電ぼくをはりめぐらせたことなど、自然とのたたかいに大きな力をさいていることが出されました。

 翌日の十勝では、「バイオ燃料と食料を考える」とのテーマで、会場に二百五十人もの参加者が集まり、熱心に話しに耳をかたむけました。

 いま何故バイオ燃料がブームになったのか、イラク戦争と中東情勢などの影響で石油価格が上昇している中で、再生可能なエネルギーとしてバイオ燃料が追求されている、あるいは地球温暖化対策のためなど指摘されている一方で、穀物価格の高騰に拍車をかけ、各国の経済にも大きな打撃となっているなど、様々な角度から深める良い機会となりました。

 背景に米国のエネルギー戦略の変化、穀物メジャーやバイテク企業の動き、史上空前の利益を上げさらに利用を追求しようとしている多国籍企業の姿など、資本主義の構造的な問題にも注目しておかなければならないと思いました。

2008年1月14日 見逃せない民主党の態度

 「いよいよ今年は総選挙の年、必ず議席奪還を!」と宮内聡比例候補、伊藤りち子札幌市議とともに元旦の宣伝からスタートしました。仕事始めの街頭演説や新年交礼会、旗びらきと参加し上京。
八日、十日の参議院の外交防衛委員会には、早くも傍聴の人たちがつめかけていました。

 そして一月十一日、問題の「新テロ特措法」をめぐり、午前中の参議院本会議では、「新イラク特措法」賛成一〇六対反対一三三と否決されたにもかかわらず、与党は両院協議会も開かず、これを衆議院に戻し、午後からの衆議院本会議において再可決を強行しました。「国民の理解と協力を得て」と言うのであれば、再可決はすべきではありません。世論調査でも反対が上回っていますが、福田総理は、前日の外交防衛委員会で、井上哲議員の質問に「だんだん賛成は広がっている」などと、根拠も示さず、ひらきなおりました。

 それにしても見逃せないのは、民主党の態度です。土壇場で「継続審議」に変えたのです。結局民主党は、またしても、自民党に助け舟をだしたことになります。しかも、この重大な局面で、小沢代表が議場から退席し、採決に参加していなかったというのですから、議会軽視もはなはだしい。議員としての責任が問われます。しっかり記憶しておかなければなりません。

2007年12月3日 365日働いても、借金だけが増える

 「毎年乳価が下がり続けてきたのに、エサ、燃料、資材は高騰、肥料も上がり、生活を切りつめても赤字だけが残る、モオー ガマンできないぞ!」と、乳価大幅引き上げを求め、酪農危機突破釧根集会が、標茶町開発センターで開かれました。

 主催したのは、農民連釧根地区協議会。管内からおよそ百三十人もの酪農家が結集しました。標茶町長、標茶町議会議長、標茶町農協組合長、釧路管内議長会副会長も来賓として出席し、激励の挨拶を送りました。久しぶりの標茶町です。スカッとした青空のもと、身を切るような冷たい風が吹く道東の冬らしい日です。

 集会後のデモ行進では、トラクター三台が先頭に立ち、牛の着ぐるみを着た青年がプラカードを持ち、力を込めて「再生産できる乳価にひきあげろー!」「酪農家をやめさせない対策をとれー」「メーカーの利益を農民に還元せよ!」などシュプレヒコールを響かせました。

 NHKなど取材陣がつめかけ「このままなら、経営はもちこたえられないという、やむにやまれない行動です」とレポート。黒字の農家も含めて一戸あたりの赤字は平均五百万円に達するといいます。三百六十五日休まず働いても、借金だけが増えていくのは、なぜなのか?小麦も脱脂粉乳も、国産の価格よりも輸入品の方が上回るという逆転した状況にもなっています。

 緊急対策を急がなければとの思いを強くし、釧路空港を後にしました。

2007年11月5日 心燃える歴史のランナーとして

 「春の芽吹きの時季といい、また紅葉の秋といい、何がこのように人間を魅きつけるのであろうか。現実はきびしく重いが、私たちはみな心燃える歴史のランナーなのである。そんな夢と望みを抱いて、また深まりゆく秋に息づく」

 教会の週報に書かれたエッセイのなかから、選定した文書を集めた「人生の岸辺にて」の中には、松田平太郎さんが出会った多くの書物や人々の生き方にふれながら、豊かな感性と愛情、平和への強いメッセージがちりばめられています。 

 北海道キリスト者平和の会、宗教者平和協議会の代表理事を勤められ、平和運動の指導者として大きな役割を果たしてこられたことは知っていましたが、残念ながら直接お話したことはありませんでした。その松田さんの告別式に参列し、存在の大きさを痛感しました。

 北星学園新札幌高校の校長を勤められ、退職後は、東札幌協会の牧師として活動されてきました。二〇〇一年の米国同時多発テロ事件のときも、いち早く声明を出し、事件を利用し武力行使を行おうとする勢力に対し抗議。また自衛隊のイラク差し止め訴訟にも、いまは亡き箕輪登さんなどとともに原告団の一人として名前を連ねてたたかいました。日本と日本人のためにも、自衛隊員のためにも憲法が保障する「平和のうちに生存する権利」を守る立場で、公正な判決を求めました。

私も心燃える歴史のランナーの一人として、松田さんの遺志を受け継いでいきたいと思います。 

2007年10月8日 言葉では「真摯に受け止めて」というが・・・

 臨時国会は、十月一日、福田新首相の所信表明演説を受けて、いよいよ本格論戦が始まりました。福田首相は冒頭、自民党の総裁選で国会運営に迷惑をかけたとお詫びし、参議院選挙の結果にふれて、国民から批判された格差社会の是正と野党との対話を強調しました。

 ところが、格差を作り出した「構造改革路線」については「改革の方向は変えず」と述べ、テロ特措法に基づく自衛隊の米軍支援については「活動の継続」を強調しました。

 「希望と安心の国づくり」といいながら中身は示さず。四日、五日、衆参の代表質問でも、つっこんだ質問になると、正面から答えません。 

 沖縄の集団自決をめぐる教科書検定意見の政府の責任についても触れず、「専門家の審議を経て検討・・」というだけ。非正規雇用の規制や社会保障の見直しについても「今後検討していく」というだけです。

 五日の参議院本会議では、農業で品目横断的経営安定対策が実施され矛盾が噴出していることが指摘されると、「どうしたらいいのか考えている」というあきれた答弁です。言葉では「真摯に受け止め」というけれど、結局これまでの自民党路線を変更する気がないのです。

 一方国会では諸団体の要請行動が勢いを増しています。とりわけ、九月二十九日の沖縄の十一万人をこえる集会は国会にも大きな衝撃を与え、即、「検定の見直し」を言わざるを得ないところに追いつめました。まさに国民が政治を動かす時代になっています。

2007年9月10日 食料自給率の向上は急務

 「絹の波」とは、麺に適した小麦の名前です。群馬県で力を入れて生産されてきたものです。もちもちした弾力のあるうどんになります。

 この麦の生産者に渡る値段が下がっているというのです。群馬県の高崎市を訪問すると、そこには、市の農政部、県農業会議の会長、市認定農業者協会の会長、農民連の副会長などが、出席して実態を話してくださいました。高崎市では十八の集落営農組合と十三の認定農業者による、小麦の「品目横断的経営安定対策」が行われていますが、小麦一俵(六十キロ)あたりの生産者への農協の概算払いは五千四百円(昨年は七千円)。
 まだ、最終的に助成される交付金の額は決まっていませんが、手数料千百円を引いて、農家の手元に渡るといいます。

 「今までの基準は決して下がることはない」と説明されていたのに、これでは確実に下がる、というのです。しかも支払いは三段階に分けられ、十二月と来年三月、七月だという。これでは、来年に向けた種や肥料、作付け準備すらできません。

北海道でも同じように、生産者の価格から販売経費が引かれて、大幅に農家手取りが目減りすることになり、「このままなら赤字になり、やめる人が出てくるだろう」といいます。

 農水省は、食料自給率がカロリーベースで四十%から三十九%に下がった事を明らかにしましたが必らず上がるといっていた事をどう説明するのでしょうか。緊急の対策が求められます。

2007年8月20日 たたかいの火は大きな炎となって

 東京から直行し、第四十三回矢臼別平和盆踊り大会の会場に到着したのは、夜も遅い九時二十分をまわっていました。さすがに盆踊りは終っていましたが、キャンプファイヤーの残り火はまだ赤々と燃え、舞台では合唱団の熱い歌声がながれていました。

 テントをまわって、「こんばんは、紙智子です」と挨拶すると、「あらっ、紙さん、おめでとう!」という声。川瀬氾二さんも、にこにこ笑って握手をしてくださいました。アレン・ネルソンさんがやってきたので、「こんばんは、アレンさんの本(「戦場で心が壊れて」)、読みましたよ」というと「ドウモ、アリガトウ」と流暢な日本語がかえってきました。

 それにしても、よくぞ四十三回も続けてきたものだと思います。
 政府、防衛施設局を相手に、一歩もひかず、「自ら開墾したこの土地に住み続けたい」と筋を通してきたのです。基地のど真ん中で、自分で家を建て、牛や馬を飼い、家族を育て、生き抜いてきたのです。「この土地を、戦争の準備のために渡すことはできない」という強い意志が、川瀬さんの周りに沢山の人の輪を広げてきました。今年も初めて参加した若者が「こういう事をもっと多くの人に知らせられないか?」と言いました。私もそう思います。

 矢臼別の運動は、そこからはじまり、広がってきたのです。
 憲法改悪が叫ばれているとき、矢臼別のたたかいの火は大きな炎となっていると感じました。

2007年6月25日 侵略戦争美化する動きに厳しい批判を

 過去の侵略戦争を正当化する「靖国派」の動きが、さまざまな形で表に出ています。日本青年会議所が作成したDVD「誇り」も、日本の侵略戦争を賛美し歴史を歪曲する靖国神社の遊就館などの展示物と同じ内容のもので、文部科学省の委託事業で学校上映を計画していました。しかし、わが党石井郁子さんの質問をきっかけに、世論の批判を受けて、青年会議所は契約を辞退しました。
 また沖縄戦における集団自決について、文部科学省が教科書検定で「軍の強制」はなかったと削除・修正させました。しかし沖縄県議会が、全会一致で、政府にその撤回を求める意見書を可決しました。
 従軍慰安婦問題でも「強制連行はなかった」と、自民・民主議員など44人が、名を連ねて米国紙への意見広告を掲載しましたが、これに対する批判・怒りは世界中から起こり広がっていくでしょう。「靖国派」の動きに、選挙で日本共産党を伸ばして厳しい審判を!

2007年6月14日 自衛隊の違憲・違法な国民監視に抗議の声

「戦前のような圧力、脅かしは許せない!」6月14日に緊急に開かれた「自衛隊の違憲・違法な国民監視活動」抗議集会には、自衛隊のリストに載っていた人を含め、たくさんの人が会場につめかけ、次々と抗議の声を上げました。私は司会役をつとめました。映画「幸せの黄色いハンカチ」にちなんだイラク派兵を見送る運動について取材された、山田洋次監督が「描いたのは夫婦の愛情だから見当違い」と答えたことまで、反自衛隊活動の対象にされました。ピースウォークを監視された高校生、フリージャーナリスト、弁護士、宗教者など、次々に発言し、中止させる強い決意が語られました。何のために、自衛隊は盗み撮りなどやっていたのか?国民を弾圧するための地ならしではないのか。自衛隊の行動の異常さに怒りを禁じえません。国民のプライバシー、肖像権、表現の自由などの権利を侵害しているだけではありません、国民の平和に生きる生存権が侵害されているということを認識し、断じて許さないたたかいを広げましょう!

2007年6月11日 1回1回の訴えに心こめて

 参院選挙を来月に控えた6月は、連続的に大演説会が計画されています。3日の山形を皮切りに、茨城、岩手、秋田、北海道、この後、埼玉、栃木、宮城、福島、群馬、青森と続きます。一つの演説会を成功させるためには、たくさんの人の手がかかります。会場を確保し、ポスターやチラシなどの宣伝物をつくり、宣伝カーをまわし、お誘いをしてたくさんの人に会場に足を運んでもらう。当日の設備や受付など要員の組織・・。こうしたとりくみの積み重ねが、一つの演説会を成功させるために努力されているだけに、「一回一回の訴えに心を込めて」と、力が入ります。演説会の合間に、仙台の都市近郊農家をたずねました。「40年間やってきて、毎年毎年が一年生みたいなものだ。一度として同じ条件だったときはないし、そのつど真剣勝負」という農家のお母さんの言葉が印象に残りました。演説も同じだなと思いつつ、年金問題や自衛隊の国民監視など、次々に動く情勢に合わせて何を訴えうるか考え、勝利に向け全力をあげていきたい。

2007年6月4日 魚食文化を守りたい

 お魚は食生活の大事な柱です。しかし、マグロの資源減少やカニ輸入禁止が報じられ、政府の「水産白書」では、水産物がよその国に「買い負け」して輸入もままならないとしています。国内では漁獲量は減り続け、生産者も高齢化し、漁船は古くなっても経営難で更新ができません。
 一方、魚離れもすすんでいます。
でもこれは、お母さんたちは子どもに魚料理を食べさせたいと思って、手間暇かけられないとか価格の割高を感じるとかの経済、社会の状況が反映しているからです。
 5月、私は農林水産委員会で漁業問題を3回質問をしました。乱獲を押さえ、資源が回復するとりくみに国の責任ある対策を求め、漁業経営安定対策や漁船更新の支援策が多くの人を対象にし、若者が漁業に参入できるようにと要求しました。生産と消費の両面から「魚食文化」を守るため努力したいと思います。

2007年5月28日 研究者にもひろがる「貧困」

 先日茨城県つくば市で開かれた、研究者の雇用と科学技術の将来をテーマにしたシンポジウムにパネラーとして出席しました。大学院の博士課程を出ても安定した研究職につけず、三年の短期雇用で当面をしのいでいる「ポストドクター」が増え、毎年1800人もの定職のない博士研究者が生み出されています。「結婚もできず、子どももつくれない」という実態の中で、若い研究者が研究への道を断念し、転職を余儀なくされています。短期雇用・非常勤研究職員が公務員住宅に入居できるよう、私が要求した農林水産委員会での質問を機に、住居問題は改善の方向に前進しました。私は、今国会の予算委員会で地球温暖化防止と食料の安全保障、食料自給率向上問題を質問しましたが、こうした課題の解決も研究者が安定した身分、条件でがんばれる体制が必要です。科学技術を担う研究者の間でも広がる「貧困」是正の問題にもひきつづきとりくんでいきます。

2007年5月21日 至宝のひと時から見えてくるもの

 このほど短大時代の友人と三人絵画展を開きました。二年前のある日、「いっしょにやらないか」と誘われ、まだ時間があるからと考えて参加することにしました。ところが、そう甘くはなく、ついに新作は一つもかけず、当日に・・・。あらためて卒業して30年以上経過した、それぞれの歩んだ道を実感しました。夫の仕事の都合で、各地を転々と転居しながら、ようやく再び絵や焼き物の作品を作り始めた人、体調を崩し、回復してからゆっくりマイペースで描き続けてきた人、年中選挙や活動で走り回りその合間で、一年に一枚か二枚かというかたつむりのようなペースでなんとか描いてきた(私)など、環境も違い生活も違うもの同士、表現もいろいろです。おかげで、何十年ぶりの旧友や知人、恩師などが訪ねてくれ、思いがけない至宝のひとときを持つことができました。会話のなかで格差社会、子供達をめぐる環境、競争社会の弊害、日々の生活の中で実感している事など、それぞれの思いをかいま見た気がします。参院選挙へ向けて、私自身の新たな闘志をわきたたせる機会にもなりました。

2007年4月16日 地方議員の活動は共産党の宝

 いっせい地方選挙の後半戦が告示となりました。前半戦に続いて後半戦も激しいたたかいが行われます。

 すべての候補者の応援に行きたいところですが、限られた日数の中で、15日には帯広市での第一声にかけつけました。

 北海道もやっと雪が消え、春の農作業の時期だと思っていたところに雪が降り、一夜にして雪景色に変わってしまいました。

 朝一番は、市議団長のいなば典昭さん、つづいて佐々木とし子さん、そして、畑中ようすけさんと三候補の応援に走りました。

 日本共産党の議員団の役割は、たいへん光るものです。長引く不況のもとで、苦しむ中小企業の大きな助けになる施策を提案し実現させてきました。「元請・下請け適正化要綱」や指名業者以外の小さな業者でも、市の公共事業の受注ができるように「小規模修繕登録制度」を提案し実現しました。業者にもよろこばれ、地域の活性化にも役立つものとして、その後、「帯広方式」と呼ばれ、各地でモデルにされています。

 この間、全国での草の根からの運動と結んで前進させてきた乳幼児医療費無料化、少人数学級の実現・拡大、介護保険の認定をうける人たちの税金を控除する障害者控除も、全国の各自治体に広がりつつあります。

 各地で生活相談を受け、その解決に力を尽くし、「困ったときはやっぱり共産党」と、信頼関係をつちかってきた地方議員の活動は党の宝です。

 必ず勝利、前進し、つづく夏の参議院選挙での勝利・前進につなげましょう。

2007年3月19日 桜の季節は国会が動くとき

今年は暖冬と言われ、桜の開花も早いと言われてきましたが、ここに来て寒気が入り込み東京もはだ寒い日がつづいています。

 3月は梅の季節ですが、いつも国会は予算審議のまっさい中でゆっくり梅や桜をながめている余裕もありません。今年も質問が連続します。 

 13日と19日はテレビ入りの予算委員会での質問のほかに、一般質疑、委嘱審査として農林水産委員会と沖縄・北方委員会での予算の審議があり、これとは別に常任委員会として、農林水産大臣の所信を受けての審査と沖縄・北方特別委員会の大臣所信を受けた審査。この他に、法案の審査を入れると7・8回の質疑が続きます。準備も大変ですが、この時期、国会審議を通じて国会が大きく動くのも特徴です。

 今、国会は、安倍内閣のほころびが次々と噴出しているもとで、内閣支持率が下がりつづけています。ところが、安倍首相はそのことを真摯に受けとめるのではなく、逆にタカ派的に突破しようとしています。

 従軍慰安婦の問題も、「強制性はなかった」と言い、改憲の手つづき法である国民投票法案を通すために、またしても自民・公明の与党だけで、公聴会の日程を議決してしまいました。すべて許しがたい暴挙です。

 まもなく始まるいっせい地方選挙は、こうした国会の暴走にストップをかける重要な機会です。勝利にむけ全力をあげましょう。

2007年2月19日 またしても米国産牛肉違反

またしても証明書のない米国産牛肉が輸入されてきました。

 2月5日、倉庫業者から動物検疫所川崎分室に対して、横浜港に到着した貨物の中に米国農務省発行の衛生証明書に記載されていない牛肉(冷凍バラ肉2箱)43`が含まれていたと報告されました。出荷施設は、米国ネブラスカ州のタイソン社レキシントン工場です。

 タイソン社は、全米一の巨大パッカー(と畜業者、解体業者)で一日に3万6千頭の牛を処理する能力をもっている工場です。そして、日本向け輸出施設ですが2006年4月には、台湾にむけたEVプログラム(輸出証明プログラム)に違反した骨を輸出した施設です。

 厚生労働省と農水省が米国側に調査を要請したところ、「誤って日本向けでないものを出荷されており、調査中」と言っていましたが、16日、タイソン社のスポークスマンは、20カ月齢以下と証明できない牛の肉であり、対日輸出条件を満していないと認めています。

 米国側は「不注意」による単純ミスだと言っているようですが、「不注意」ですまされることではありません。

 昨年7月にも米国から証明書のない牛肉加工肉が混入して入ってきており、くりかえされているのです。証明書に記載されていないものが輸入されたこと自体、検査証明そのもののズサンさを示すものであり、米国からの輸入はストップし、徹底して調査を行うべきです。

2007年1月23日 規制緩和が何をもたらしているか

 規制緩和の悪影響が、労働者の健康や生命の危険にまで及ぶ事例として、各地でタクシー労働者の問題があります。
 1月19日、北海道で労働局長あてに、タクシー労働者の労働条件の改善と労基法違反等の摘発・指導強化を求めて申し入れを行いました。以前、函館の違反事例で、厚生労働省から「深夜割増賃金の未払いは違法です」と回答を得ていたことをふまえ、全道的な対応も含めた申し入れをしました。
 労働局側は規制緩和政策がとられて以降、「他の分野からも違法な行為についての訴えが寄せられているが、とくにタクシー業界の規制緩和が労働関係に悪影響を及ぼしていることを我々も認識している」と話されました。
 「違法事例を把握次第、改善を指導します」とした上で「ロスカット(客待ち時間の賃金カット)についても不就労の挙証責任は使用者側にある。累進歩合制度のもとで、長時間労働やスピード違反、交通事故を発生させやすいことから廃止を指導、年休についても啓発していく」と回答しました。
 現実には違法がただされず、逆にふえている現況のなかで、くりかえし是正されるまで各地で追及していく必要があると痛感しました。

2006年12月11日 自立支援法の抜本的見直しへさらに声をひろげよう

 障害者自立支援法が4月に施行されて8カ月。いま政府は利用者負担の軽減策を検討しており、12月20日には、内容を明らかにする予定です。見直さざるを得なくなったこと事態、いかに矛盾ある法案を無理して通したかの現れです。

 私は12月4日の決算委員会で、国の障害者施策推進本部長でもある安倍総理に質問しました。総理は、国際障害者年の「完全参加と平等」の理念にふさわしく国内の障害者施策はすすんでいると答弁。

 しかし現実は、「自立支援法」のもとで、障害者の社会参加とは逆行する事態になっています。原則一割負担(応益負担)の導入で、共同作業所の利用料、ヘルパーさんの利用料にそのつど負担が増え、家計を圧迫し、施設の側も収入減で経営が困難になっていると指摘し、見直しを求めました。

 障害者が生きるために必要な助けを借りることが、なぜ利益を得たことになるのか。応益負担は、撤廃すべきだと訴えました。

 質問が終わるとすぐ、テレビを見ていた人から、「いま、質問を見ました。私も障害の子供を持っていますが、本当にそのとおりだと思いました」「私は障害者ですが、私たちの気持ちや立場を本当にわかってくださって、訴えてくれたことに心から感謝します。いまの弱者切り捨ての社会をかえてほしい」などたくさんの声がよせられました。

 障害者の皆さんの「あきらめない」がんばりが、政府を追いつめたのです。抜本的な見直しへさらに力をあわせましょう。

2006年11月13日 竜巻被害の現場に駆けつけて

 人口6000人ほどの農業と漁業の町、佐呂間町を、突然竜巻が襲ったのは11月7日の昼間。ニュースで繰り返し流される状況を目にして、役場に電話を入れたときは、町長も助役もみんな現場に出ているとのことでした。

 翌日、本会議を終えて羽田から女満別空港へ飛び、佐呂間町で但木早苗町議、真下紀子道議、はたやま和也参院選候補、宮内聡北海道事務所長、北見の議員さんたちと合流したのは、午後三時すぎ。

 被災した若佐地域に入ると、まさに狙い撃ちでもしたかのように、被害は集中的に現れていました。屋根が剥ぎ取られ、中が空っぽとなった家、ところがその隣の家はほとんど無傷で残っています。壊れた家の後片付けをしていた食堂の男性は、「亡くなった作業員の人たちは、この店によく食べに来てくれていたんですよ…」と声をつまらせました。また、当時家の中にいた女性は、「突然、家がみしみしいって、くるくるっと回って気がついたら家がなくなっていた。無事だったのは奇跡です」と話してくれました。

 一瞬のうちにさまざまなものを巻き上げ、9名の尊い命を奪い、粉々につぶしてしまったその破壊力、自然の猛威のすさまじさを、まざまざと見せつけられました。

 町長さん、助役さんからは「いつ雪が降ってもおかしくない季節なので、一日も早く壊れた家の修復や、住む家の確保など、対策を打たなければならない」とその緊急性を訴えられました。素早い対策を求めたいと思います。

 2006年10月16日 不当判決を許さず、言論・表現の自由をまもろう

 10月6日、「国公法弾圧を許さず言論・表現の自由を守る会」の総会に参加し、党代表で挨拶しました。2004年、東京目黒の社会保険事務所に勤務していた堀越明男さんが、休日に自宅周辺の民家やマンションのポストに、「憲法九条は日本の宝」という日本共産党のビラを配布したことを、ほとんど適用のなかった国家公務員の政治活動を禁止という国家公務員法・人事院規則違反とされ、逮捕・起訴されました。
 堀越さんと弁護団は、この起訴が憲法に保障された言論表現の自由を抑圧するものであり、公安警察の違法な尾行・監視・盗撮によって仕立てあげられたと主張し、無罪を要求して裁判で争ってきました。ところが6月29日の東京地裁は、罰金10万円・執行猶予二年の有罪判決を言い渡したのです。
 集会でのジャーナリストの大谷昭宏さんの講演を聴きながら、「裁かれるべきは違法な人権侵害を犯した警察権力のほうだ」と強い怒りを感じ、本事件が教育基本法と憲法の改悪という日本の反動化の動きと軌を一にするものとあらためて認識させられました。多くの国民に、この異常な事実を知らせ、もっと大きな世論と運動を広げて、なんとしても控訴審で勝利し、不当判決を撤回させなければならないと思いました。

 2006年9月18日 人間裁判ー勇気あるたたかい

 前田アイコさんは今88歳です。9月16日の秋田県での女性の集いで、「私は百歳まで生きて、裁判で勝利するのを見とどけるつもり」と話してくださいました。

 大正7年(1918年)の生まれといえば私の父母と同じくらいの年代です。16歳から13年間電話交換手として働き、結婚。労働組合の専従だった夫を支えて、内職をしながら子どもを育てたそうです。ところが夫は退職後肝臓ガンになり、闘病生活ののち87年に他界してしまいました。

 生活保護を受けても、生活費は10万円にもみたない中で、家賃や電気、ガス、水道など生活にかかる経費を除けば残りはわずか。闘病中の息子さんを見舞う交通費もままならず、姪の結婚式に出られませんでした。

 お兄さんの葬式にも出られなかったことが、今でも悔やまれています。そんな前田さんが裁判に訴えようとなったのは、生活保護に上乗せされていた老齢加算が削除されたことがきっかけです。

 「国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と憲法25条でうたわれているのに、現実はかけ離れている。わずかな支えの1万6千680円の加算が削られました。「元にもどしてほしい。そして、人間が自立できる最低限の基準とは何かを明らかにさせたい」と、訴えています。

 政治のありかたの根本を問うたたかいです。勝利のためにみんなで支えていかなければならないと思いました。

 2006年8月28日 二度と犠牲者を出さないように、安全操業への対策を

 8月15日、終戦記念日の翌日、8月16日の未明、根室の貝殻島付近で、日本のかに籠漁船「第31吉進丸」が、ロシアの国境警備艇に銃撃・だ捕される事件が起こりました。
地元、神忠志根室市会議員から連絡を受け、17日夕方、花岡ユリ子道議、島垣比例事務所長とともに丘珠空港から中標津空港まで飛び、根室市花咲の、だ捕された「第31吉進丸」が所属する根室湾中部漁協へ直行しました。
 漁協役員の方は、重い口を開いて「人の命が失われたことの重みを受け止めてほしい」と語ってくれました。
 翌日、、亡くなられた盛田さんの家族をお見舞いした時は、悲しみに精一杯耐えている姿に、ほんとうに胸が締め付けられました。
 根室市役所で、藤原市長と懇談。市長は「理由のいかんを問わず、銃撃で人命を奪うことは許されない」「ロシア側の情報のみで検証のないままの日本の報道のあり方にも問題がある」と憤りを語りました。
 現場入りしていた山中Y子政務官に、「盛田光広さんの遺体と、だ捕された三人を一日も早く日本へ返すようにロシアに強く求めて」との家族の声を伝えました。その後盛田さんの遺体は四日ぶりに根室に戻されました。
 しかし、だ捕された三人は、今も取調べが長引き、解放されていません。領土問題が解決していないがために起こった問題であり国の責任ある対応が問われています。坂下船長をはじめ三人の早期解放と、再発防止、安全操業への対策など、国会での閉会中審査を求めています。

 2006年7月31日 せきをきって出された障害者の声にこたえて

 障害者自立支援法で、利用者への一割負担や10月から導入される障害程度区分制度など、現場から具体的影響や、問題点、不安が相次いで出されています。
 29日に札幌市内で行われた障害者団体、家族との懇談会には、60人もの人が参加。江別の授産施設から参加した方は、アンケートの結果「九割以上が医療費を負担に感じている。親が医療費を立て替えているケースも多い。何とか医療費を無料にできなのか」との訴え。「障害程度区分の認定についても、知的障害、精神障害の場合、判定が実際より軽く出てしまう問題がある」という声。
 また、「精神障害者の場合、自己負担5%までの条項がなくなり、応益負担となったため、医療費の負担増に大きな不安を感じている」、地方自治体の裁量となる地域生活支援事業について「札幌市は、移動支援を就労、通学には使わせない。日常生活用具も非課税世帯にも負担させるということで人口肛門の人が悲鳴をあげている」。事業者自身も「このままでは大幅な減収で経営自体も危ぶまれる。本当にどうしたらいいのか、お先真っ暗だ」など不安や疑問が次々に出されました。
 このような混乱をもたらした国の責任を追求、応益負担を撤回させて行かなければならないことはもちろんですが、利用者の実態や要望を反映させ、負担軽減への取り組みを強めていかなければとつよく感じた懇談会でした。

 2006年7月3日 新しい出会いと喜び

 六月後半から、東北は盛岡市、花巻市での「語る会」と演説会、その後、北海道・帯広へ飛び、この演説会でも思いのたけを思いっきり訴えました。日々新しい出会いがあり、喜びがあります。二十九日は埼玉県・済生会栗橋病院副院長の本田宏先生にお会いしました。外科部長でもあり、この日も外科の手術を終え、私たちを出迎えてくれ、自ら作った講演用スライドを使って今日の日本の医療体制の貧しさ、医療の現場の実態と問題点を説明してくれました。「OECD加盟国の中でも日本はきわめて医師数が少なく、事故が起こる率が高くなるのは当たり前。厚生労働省には産科医療の現場がわかっていない」と。混合診療は「報酬が高い人しか手術しない」ということになりかねず、倫理破壊を招く心配があると指摘します。気が付くと予定時間を大きく超過。「どんなに忙しくても、このことは、国民にもわかってもらいたい」。気持ちがびーんと伝わりました。
 七月一日も新たな出会い。茨城県の鯉淵学園農業栄養専門学校の学生の学習会に呼ばれ講演。この学校は農業経営科学、生活栄養科学科の二つがあり、農業や食料、栄養に関する専門家を育てています。BSE問題や食の安全、農業問題、国会の様子など一時間半話し、学生の大盛な好奇心、まっすぐな目線を受け、たくさんの疑問、質問に受け答えしながら、「こういう若者が、農業に魅力を感じて、担い手になっていける日本にしなければ」とつくづく感じました。

 2006年6月5日 終盤国会、悪法阻止へ、今が頑張りどき!

 北関東・東北・北海道と広大な活動地域を、国会の合間をぬって北へ南へ東へ西へ。長(?)足を大きくのばして、駆け回る日々が続いています。先週末は宮城県、仙台へ。
 駅前のけやき通りの木立は青々と生い茂り、まさに「杜の都」の装いです。中間選挙が連続していた県内で、後援会の皆さんの表情は疲れるどころか、引き締まった生き生きした表情に感じました。女性後援会の皆さんのパワーに励まされながら、北海道へ移動。
 旭川市で、今国会で審議中の農政「改革」関連法案の地方公聴会が行われるので、出席の為に戻り、一ヶ月ぶりに、我が家に帰りました。
 今年一月二十日から百五十日間の会期で行われてきた国会も、いよいよ終盤を迎えています。
 しかし国民にとって最悪の法案が提出されています。未だかってこれほどの悪法を、こんなに安々と国会に提出した総理大臣がいたでしょうか。医療制度「改革」法案、教育基本法の「改正」法案、共謀罪など。最大は、「九条」の改憲を目的とした「国民投票法案」が戦後初めて審議に入りました。国会内外で党派を超えた大きな世論と運動がいよいよ広がりを見せている状況です。
 いまこそがんばりどきです。

 2006年5月8日 8日からの国会論戦再開に向け鋭気を養う

 四月末、青森県での行動は、津軽、青森の「お花見の会」のあと、下北半島・むつ市へと大移動して夜の演説会に臨むという、強行スケジュールでしたが、「遠くまでよくきてくれた」と大歓迎され疲れもふき飛びました。核再処理施設の誘致が、地元で大変不安な問題となっており、この後の対策と運動が大切だと思いました。
 五月一日、メーデー北海道集会は、雨の中、四千人を超える労働者、市民が集まりました。人文字を作り、元気よくデモ行進する参加者に、街頭から激励のエールを送りました。 
 翌日は、はたやま和也参議院選挙区候補、東区の大橋晃道議団長、金倉まさとし道議候補とともに、区内のハローワーク、高等技術専門学校、障害者地域支援センターなどを訪ね、青年の雇用状況と対策、障害者自立支援法成立以降の影響や問題点、要望などを聞きとりました。
 三日、「憲法を語ろう道民集会」に参加。参加者の熱気に励まされながら街頭演説会へ。この後、来年に迫った選挙用の写真撮影。「任せてください!」と強気の表情で「ハイ、パチリ!」うまく撮れたかな?
 連休中は、久しぶりにスケッチブックを手に車を走らせ富艮野市へ。途中ジャガイモの植え付けをしている姿が見られました。やっと雪が融け、遅れていた農作業が始まっています。富良野岳の山頂は白い雪が残り本当に美しく、鋭気が養われました。
 気分も新たに、8日からの国会論戦にむけて、準備を整え、全力投球で挑みます。

 2006年4月3日 桜満開の東京から冬景色の北海道へ

 ほとんど毎日質問に立った三月半ばから、後半の超過密スケジュールを乗り切って、三十一日久しぶりに北海道にもどりました。
 四月一日は札幌から士別市へ列車で移動し、四月十六日投票日をひかえた合併後初の市議会議員選挙勝利に向けた演説会に参加しました。北に向かうにつれて雪の量は多くなり、きのうまでの桜満開の東京・国会周辺とは打って変わった冬景色です。士別の演説会場はほぼ満席になり、候補者の斉藤のぼるさん、小池浩美さん、朝日選挙区の田村明光さんの三人とも、元気いっぱい選挙での支持を訴えました。私も国会報告とあわせて、三人全員の当選を訴えました。
 翌日は小樽へ移動。二ヵ所の地域演説会で国会報告と、来年のいっせい地方選挙での勝利とその後の参議院選挙での勝利を訴えました。小樽は昔から、地域演説会、お茶の間懇談会が得意な所で、対話演説会の形で行われるので、一方通行ではないやりとりが楽しかったです。
 三日は朝七時にホテルを出て小樽の青果市場へ。朝の“せり”を見せていただいたあと、市場関係者のみなさんと懇談。二〇〇四年の卸売市場法改正が行われた後の変化や現状、意見や要望などを寄せていただきました。規制緩和の流れの中で、いやがおうでも転換が求められている状況のもと、現場の皆さんの知恵を集めながら努力している様子が伝わってきました。

 2006年3月6日 米国でのBSE調査を終えて

 二月十七日から二十二日まで、BSE調査のため訪米しました。
 ニューヨークで日本に「脊柱の入った牛肉」を輸出した、問題の食肉工場・アトランティック社を視察。ワシントンに戻って、米国農務省や全米連邦獣医官協会の法律顧問やNGO市民団体との話し合いをすることができました。
 百聞は一見にしかず。やはり実際に来て自分の目で確かめるということの意味の大きさを痛感しました。
 現地を見て、いくつもの疑問がうまれました
。たとえば、アトランティック社は、外観から見ただけでも、衛生管理システム「ハサップ」対応の施設とは思えず、本当にこの会社が、日本向けに認定を受けているのだろうか?こんな工場に、食品安全検査官を常駐させているのだろうかなど。農務省とのやり取りでは、こうした疑問を含め、多くの質問をし、二時間にも及ぶやりとりになりました。しかし、肝心なことになると、回答はあやふやでした。「査察」に対する考え方の違い、食の安全、安心の考え方にも大きな違いがありました。日本のように、危ないものは流通させないし、決して食卓に上がらないようにするというのではないのです。
 こんなずさんで不確かなのに、輸入再開した、日本の農水省、厚生労働省、小泉総理の無責任さに怒りがわきました。
 今週から始まった参議院の論戦で大いに追及したいと思います。

 2006年2月6日 考え行動する人々とともに

 三日、参議院農水委員会の集中審議で、中川農水大臣への質問を終えたあと、北海道へ戻り、四日は、ピースネット主催の講演会に参加しました。どの党派にも属さない無党派の人たちによるこの企画は、昨年総選挙で小泉内閣が三分の二以上の議席を得たことから、どうしたら政治を市民の手にとり戻すことができるか、ともに考えていこうという趣旨でおこなわれたものです。大雪にもかかわらず五十人ぐらいの人が集まり、私の話に耳を傾けてくれ、たくさんの質問を寄せてくれました。「共産党が社民党に憲法改悪を許さないための共同を申し入れたと聞いて期待しているがどうなっているのか」「日本共産党はNGOとかNPOとか市民運動をどういうふうにみているのか」「選挙での自民党圧勝の結果をみると国民を信頼して大丈夫なのかと思うが」―― 日本共産党を知っていただくいい機会だと思い、答えられる範囲で精一杯答えました。もっとよく知りたい、自分たちに何ができるか考えたい、という人が行動しようとしています。そういう人たちに理解してもらう運動が大切だと思いました。
函館の道議会議員補欠選挙で見事当選を果たした前川一夫さんは「五ヶ月前の衆議院選挙では候補者としてたたかったが、その時と反応が大きく変わっている」といっていました。命の限りに闘った日高令子さんへの思いとともに、小泉内閣の悪政と、その対抗軸になりえない民主党への不信感、そのなかで日本共産党の存在意義を強く輝かせていくときです。

 2006年1月9日 身が引き締まる思い

 二〇〇六年の幕が明けました。元旦、恒例の白石神社前、清田区・厚別神社前での初宣伝で新年の第一声をあげ、新年交礼会などの諸行事に参加。五日、北海道委員会の新年旗びらき、七日は福島県の旗びらきに参加しました。
〇七年は、一斉地方選挙、参議院選挙の年です。北海道でも福島でも参議院選挙区の候補者を発表し、内外に示しました。
北海道選挙区の三十四歳の若々しい畠山和也さんのフレッシュな決意、そして福島選挙区の宮本しづえさんは、福島市議会議員として豊かな実績を持つ現職議員です。力強いあいさつを聞きながら、身が引き締まる思いでした。
道内では昨年、無念の思いで失った道議会議員・日高令子さんのかけがえのない議席を取り戻すべく道議補選のたたかいが一月二十日告示、二九日投票と目前です。
私が最後に日高さんに会ったのが十一月、「なんとかしようと思うんだけどね」とやせた手で食事をとり、カレンダーに議会の委員会日程にマル印をつけて懸命に病気と闘っている姿に、熱いものがこみ上げました。
WTO閣僚会議で香港にいっている間に逝ってしまい本当に残念です。
それだけに日高さんの遺志を引き継ぎ、立候補する前川一夫道議候補勝利のために全力を尽くさなければなりません。
熱い波を起こしてみんなの力で勝利を!

 2005年12月12日 世の中の邪悪なもの静まれ

 十二月九日、浄土真宗大谷派の極楽寺・住職の巌城(いわき)孝憲さんと対談の機会を得られ、有意義なひとときとなりました。予定していた二時間がまたたくまに過ぎ、楽しく、共感しながら、エネルギーが蓄積されていくような気がしました。
今年、極楽寺では八月六日、九日の広島、長崎の日に、原爆が投下されたその時間に鐘をついたのです。知人の呼びかけで広島でも長崎でも京都でも各地でその時間にいっせいに行われました。「除夜の鐘」は午前零時を前後して一〇八回鐘をついて煩悩を取りさらうというものですが、この八月の鐘は「世界の中の邪悪なものが静まってほしい」という願いをこめておこなわれました。
六日にテレビなどで放映されると、九日には「私にも鐘をつかせてほしい」と自らすすんで鐘をつきにきてくれたことに、心から感動し、「やってよかった」と思ったこと、また仏教では、生きとし生けるものの命を大事にする「不殺生」という言葉があるが、現実の世の中では、毎日のように命がないがしろにされ、イラクをはじめ戦争の不安におびえる子どもの目を見ると「こんなひどい目にあわせてはならないと大人が決意しなければならない」と、その思いを語って下さいました。
日本共産党の立党の精神とも多くの点で一致することを感じました。思想信条の違いを超えてともに世界と日本の問題で力をあわせることができると思いました。

 2005年11月28日 沖縄へのさらなる負担押しつけに怒り


 国会閉会後も、政治は大きく動いています。

 自民党が党大会で、「新憲法草案」を採決し、来年の通常国会にむけて、国民投票法案の提出を念頭に、公明党、民主党の合意を取り付けるべく、水面下で画策するなど予断を許しません。

 23日から26日まで、二つの目的で、沖縄に行きました。
 一つは、新価格制度の導入で影響を受ける、サトウキビ生産の現状調査。もう一つは、米軍キャンプ・シュワブの新基地建設計画予定地の視察です。

 大浦湾と周辺の金武町につくられている都市型戦闘訓練施設、レンジ4をみれば、口では「沖縄の負担軽減」を言いながら、在日米軍の基地強化は明らかです。

 平和委員会の船で、大浦湾の長島という小島に上陸し、島の灯台から大浦湾を見ると、米軍キャンプの位置に元の建設予定地、現在の建設予定地などが見え、周辺の様子が一望できました。

 元の計画も、「辺野古の美しく静かな珊瑚礁を壊し、ジュゴンの餌場もなくなる」と反対運動が広まりました。新しい予定地はさらに、滑走路が民間地域に近づき、周辺住民に騒音や事故の危険をもたらす、最悪のものであると実感しました。

 金武町の都市型戦闘訓練施設は国道のすぐ横で、近い所は住宅地とわずか300〜400bの近距離です。訓練中に流れ弾が飛んでくる可能性は米軍も認めているということです。

 この危険な実態を目の当たりにして、心の底からの憤りを感じます。何としても阻止しなければなりません。

  2005年11月7日 サンルダム建設予定地を調査して

 11月1日、特別国会が閉会となり、直ちに北海道へ戻り、3日の憲法を守る道民集会に参加したあと、サンルダム建設予定地の下川町に調査に入りました。

 サンルダムは、天塩川にそそぐサンル川につくられる計画ですが、この流域には日本でも最大のサクラマスの自然産卵の場所で知られているところです。

 川の源流部を、「下川自然を考える会」の宮田修さんに案内していただきましたが、手つかずにのままの自然が残され、雨が降っても川の水が濁らないと言われるほど、森が豊かであること、サクラマスが小さな支流にものぼって産卵するということが、理屈抜きで納得できる、美しい清流でした。

 ダム建設によって破壊される危機感を持って、何度も説明を求めており、「魚道をつければ大丈夫と言われたが、本当に遡上できるのか。また稚魚が降下するとき無事に降下できるのか、何の保障もない」。当初の建設目的もくるくる変わってきたことにも疑問を呈していました。

 これに先立って、天塩川の下流部で漁業を営む、北るもい漁協を訪れました。天塩川の河口は北海道でも有数のシジミの産地です。「今までも開発による環境の変化で年々水揚げが減ってきたが、今回、サンルダムができれば、さらに資源が減る。これ以上の環境破壊はやめてほしい」と訴えていました。

 直接聞いた声をもとに、このあとの国会の議論にも反映させていきたいと思います。

 2005年10月17日 悪政の暴走にストップ!


 10月6、7日と燃油高騰調査で北海道に帰り、えりも、浦河、苫小牧の漁協や熱供給公社、札幌で道生協連やトラック協会、クリーニング協同組合、公衆浴場組合など各業界を回り懇談しました。

 現場の声を聞きながら、「規制緩和」がされて以降、価格については市場に任されることになって、有効な手立てがとりにくくなっていること、その結果、末端の小さな業者や消費者に、もっともしわ寄せがきていることを聞き、これも小泉流「構造改革]の結果だと思いました。

 競争させて、強いものだけが生き残り、弱いものは淘汰(とうた)されるという弱肉強食の世界であり、これを「改革」というなら、だれのための改革か、その答えは明らかです。

 先の国会で廃案になった障害者自立支援法が、参議院先議で審議され、わずか18時間の審議時間で採決、衆議院に送られました。その審議を通じて、驚くべき答弁がされました。

 応益負担は、負担できない人にも耐えがたい負担を与えるものだという批判に対し、労働省社会・援護局長は、「これからは、サービスは買うものだと思っていただきたい」と。

 買えない人は、「生きる権利が保障されなくても仕方がない」と言うに等しい発言に、強い怒りをおぼえました。

 これが、小泉政権の「改革」の実態だということを、今回小泉自民党に投票した人にも知らせ、よく考えてもらいましょう。
 悪政の暴走をストップさせるため、国民的な運動を広げなければなりません。

 2005年9月29日―明日にむかって―
  「飲んべえ熊が入った家」 自然豊かな知床だから

 「飲んべえ熊が入った家」という看板がかかった民家、「山から下りてきた熊が浜のテトラポッドに腰をおろして、遠く海をながめ、物思いにふけっていた」など、自然が豊かな知床だからこそできるこぼれ話に、よくおなかを抱えて笑ったものです。
 何度来ても、いつも雄大な自然に魅せられるこの地が、ついに今年世界自然遺産に登録されました。地球温暖化、異常気象、酸性雨、生態系の危機など地球環境が壊されつつある出来事が起こっている中で、環境・自然を保全し維持していく意識的な努力が必要になっている時代です。
 森林の伐採や開発行為、利潤追求のために後先考えずにやってきた人間の無造作な行為によって、動物も植物も自然も大きく傷ついています。そんな中で知床が世界遺産に登録されたということは素直に「うれしい」と喜べると同時に、この宝物を大切に守り、次世代に受け継いでいくための自覚と責任を課せられたのだと思うと、いまスタートラインに立っている緊張感を覚えます。
 すでに、1993年に鹿児島県の屋久島と東北の白神山地が自然遇産に登録されていますが、あるがままの姿を維持し保全するということは、並・大抵ではないということ。世界的にも固有種や希少種を含む生物相を有し特異な生態系、美しい景観などとともに「法律、規制、制度による長期的で適切な保護をうける」ということが世界遺産としての条件になっているわけです。
 どうすればこの自然を守れるのか、また、地域で生活する人々と共存できるのか大いに議論をしていきたい。


 2005年9月26日 もみじ祭りの交流で特別国会での奮闘を誓う


 9月25日(日)、苫小牧「もみじ祭り」に、先の総選挙でたたかった、渡辺ゆかりさん、佐藤昭子さんの両候補者と一緒に参加しました。
 若草公園に太鼓の音が鳴り響き開会。二人の候補者の挨拶のあと、私も選挙でのご支援へのお礼と選挙結果、163特別国会の課題と今後の国民運動への呼びかけなど、報告と訴えを行いました。
 お天気も曇りから晴れに変わり、太陽の日差しが強くなるとだんだん参加者も増えてきました。三人で連れ立って挨拶しながら後援会の出店コーナーをまわり、ところどころで、今朝採りたてのイモやカボチャ、釣りたてのヤマベのてんぷらなど、秋の味覚に舌鼓。
 会場では、「残念だったけど、またがんばるから、国会の方でもがんばってね」「どうしてもいいたいことがある、北海道の季節労働者の援護制度をなんとかして存続してほしい」「業者は大変だ、今受けている相談は税金対策なんかより、今日、明日どうやって食べていくのかという内容が多い、共産党しかないんだから、がんばってほしい」など、多くの人から声をかけられました。
 小泉突風が吹きすさぶ中、全国で33万票の得票を伸ばし、492万票を獲得し、9議席確保したということは、「健闘した」と言えるものだと思います。しかしやはり「この北海道で議席を回復し10人になっていたら…」と思わずにはいられません。
 しっかり総括をおこない、これをバネに、必ず前進しなければと思いました。
2005年8月1日 アスベストの被害実態を明らかにし、救済・被害発生防止に万全を
 7月26日、アスベスト問題で、かつて採掘現場であった富良野市に宮内聡国会議員団北海道事務所長、大橋晃、真下紀子両道議らとともに調査に入りました。
 もとは野沢、山部、布部の三つの鉱山があり、多くの社員と家族が住んでいました。富良野市役所を訪ねると、松浦助役と小尾市民部長が応対してくれ「古い話だから、当時の事を詳しく知っている人に聞かなければわからないが、これだけテレビでも問題となっている中で、不安を感じている人もいるだろうし、市としては相談窓口をつくることにしている」と話してくれました。
 潜伏期間が長く、20年から30年たたないと症状が出てこないこともあり、調べるのは容易なことではありませんが、実態を明らかにすることが必要です。
 株式会社ノザワは、堆積していた廃石(ズリ)を原料にアスベスト生産を続けていましたが、2003年(平成15年)からは中止し、廃鉱となった山は、緑化を進めています。
 現在は8人の従業員ですが、最盛期は500人の従業員がいたといいます。その人たちはどうしているのか。日本でアスベストが人体に危険な影響を及ぼすことが医学的にも指摘されたのは70年代だったにもかかわらず、必要な対策をとらずに放置した国の「不作為」という問題がまたしても浮き彫りになりました。国、自治体、企業が一体となった真剣な取り組みが求められています。

2005年6月20日 青空のもと、新しい仲間を迎えて
 6月19日(日)は、本来なら1月から続いてきた162通常国会の閉会日であるはずが、17日、衆議院で55日間の会期延長の議決によって8月13日までとなりました。
 そのため、一時中断となった合間をぬって、東京都議選の応援に入り、その足で、北海道北広島市の補欠選挙に向けた演説会。そして十数年ぶりに開催となった、北見市の青空まつりに、宮内聡さんといっしょに参加することができました。
 雲一つない晴天という最高のお祭り日和にめぐまれて、後援会のみなさんと交流し、たのしいひと時を過ごしました。
 会場の常盤公園は、池や木立があり、木陰に入っていると木立を吹き抜ける風がなんとも心地よく、焼き肉に舌鼓を打ちながら北海道の一番いい季節を実感することができました。
 この間、国会で取りあげてきた、ふるさと銀河線の問題や介護保険制度の問題などを報告しながら、うれしそうに頷いて聞いてくださるみなさんの表情に、本当にやって良かったと心から思いました。これからががんばりどきです。
 なんと言ってもうれしかったのは、会場で25歳の若者と、70歳代の先輩二人を日本共産党に迎えることができたことです。「沖縄にも行き、感じるところがあった」という青年の前向きな心、そして「人を大切にするまともな世の中にしなければ」という三人の思いにこたえるよう、共産党をより豊で魅力的で大きな党に発展させなければと思いました。

2005年5月30日 「大型店と街づくり」シンポジウムに参加して
 5月28日、「大型店とまちづくりを考える」シンポジウムが岩見沢市で行われ、私もパネリストの一人として参加しました。
 岩見沢を中心に三笠、栗山と大型店の出店攻勢の中、これまで地域を支えてきた商業者、商店は大きな打撃をうけ、倒産や店をたたむ状況があとを絶たず、大きな問題になっていました。
 人口減や高齢化のすすむ南空知地域で、いかにして賑わいのある商店街、街づくりをすすめるのか。岩見沢商店街振興組合連合会の仁志紘一理事長や美唄商工会議所の奥山裕章専務理事、元三笠市民生協理事の岩崎龍子さんの発言やフロアーからの発言を聞きながら、炭鉱閉山後、農業を基幹産業としてきた空知の現状、歴史の中で伝えられてきた伝統、文化、街づくりに果たしてきた商店街の役割、高齢化がすすんでいるからこそ地域のコミュニティーを大切にしたまちづくりが求められていることなど、あらためて考えさせられました。
 シンポジウムに先立ち、岩見沢市と三笠市の境に4月にオープンしたばかりのイオンの巨大商業施設を見ましたが、車が1200台止められるという広大な土地に、いたって簡素なつくりで、広いフロアーに間仕切りもなく商品がコーナーごとに積んであるだけのもので、いつでも撤退できる体制であることが、見て取れるものでした。
 地域の人々が安心して住み続けられるまちをつくるために、党派の違いをこえ、大いにとりくみを強めていかなければならないと思いました。

2005年5月9日 燎原の火のように「九条の会」と国民運動を!
 例年、メーデーは、桜の花も開いてまさに「風薫る5月」ですが、今年はめずらしく雨天となりました。
 それにもめげず、つめかけた参加者は、今年のメーデーのメインスローガンの一つでもある、「平和 9(きゅう)」の人文字を、見事につくりあげようと、雨の中傘を置いて、上空を旋回するセスナ機に向かい、掛け声にあわせて色のカードを高く差し上げました。
 気迫におされてか、いつの間にか雨も上がり、デモ行進は元気いっぱい。第76回メーデー万歳!
 3日は58年目の憲法記念日の道民集会。会場いっぱいの参加に熱気を感じました。
 私はこの間の憲法調査会をめぐる論戦、各党の態度などにふれながら国会報告をしました。国民多数の声が、国会では少数になる異常な実態の中で、この状況をなんとしても打開するために、国民運動と一体となって「もっと頑張るぞ」と心に誓いました。
 道内でも110をこえる「九条の会」が作られ、参加者の幅が広がってきています。「知って、知らせて、組織する」の基本にたちかえり、憲法守るたたかいを「燎原の火」のように広げましょう。
 「燎原の火」とは、火の勢いが盛んで防ぎとめられないくらい、はなはだしい勢いで広がっていくさまを示します。まさにそういうたたかいに発展させましょう。ファイト!

2005年4月4日 沖縄戦の戦後処理にかかわる問題で質問
 沖縄戦にかかわる戦後処理問題の一つ、糸満市の大里地区にある、門中墓(岩を掘ってお墓にしたもので「岩かげ墓」とも言う)は、戦争中は日本軍がさらに深く掘り、防空壕として使っていたため米軍から狙い撃ちにされ、そこで多くの人が亡くなりました。
 遺骨収集もおこなわれてきましたが、年月とともに劣化が激しくなり、岩が次々と崩れ落ちるようになりました。このままでは危険だというので、お墓の持ち主の上原さんは、戦後処理が終わっていない問題として、安全対策などを県に陳情していました。
 衆議院の赤嶺政賢議員から事情を聞き、3月25日の沖縄・北方特別委員会で、わずか十分の質問時間でしたが、取り上げたところ、内閣府は「初めて聞いた。すぐに地元沖縄県と連絡をとった。県も対策を取る意向である」と述べ、また小池百合子沖縄担当大臣も「戦後処理問題を常に頭において対処していく」と答弁しました。
 思いのほか前向きの答弁を得られほっとしていたら、翌日出張で移動中の車に、携帯電話がかかってきました。なんと、上原さん本人からの喜びとお礼の電話だったのです。
 赤嶺さんが、沖縄に帰ったその足で、すぐに国会質問ビデオを持って依頼者の上原さんに報告してくださったのです。
こんなに喜んでもらえ、本当にやってよかったと思いました。わずか十分でも、一つ一つ大切に、これからも役に立つ質問をやっていきたいと思います。

2005年3月14日 予算委員会での質問をおこなって
 2005年度予算案の審議は参議院に移り、先週は私も、2回予算委員会の質問に立ちました。
 1回目は7日、米国産牛肉輸入再開をめぐる問題と在日米軍の再編問題で町村外務大臣、大野防衛庁長官、細田官房長官に対して片道8分(質問時間のみ8分ということなので、答弁時間を含めると、約33分間のやり取りができた)。
 2回目は10日、初めてのテレビ入りの質問で、障害者自立支援法案の問題について小泉総理と尾辻厚生労働大臣に質問。答弁を含む往復の時間で9分。
 7日の質問では、こちらからの質問は余分な言葉を省いて、できる限り短く聞き、相手に多く答えさせながら問題点をあきらかにしていくようにしました。日米両政府が東富士演習場における米軍の優先使用を認める密約を結んでいたことを暴露し、大野防衛庁長官に「公開できる限り公開する」と約束させました。
 10日の質問では、九分間の中で、こちらの主張をしっかり出し、必要な答弁をできるだけ短い時間で引き出すことを目的としました。
 この答弁で重要だったのは、小泉総理が、障害者自立支援法について、「不十分な点もあるが、改善すべき点は改善していかなければならない」と答弁。また、「本人に収入がなくても家族に収入があれば負担を上げる世帯所得という考え方については、見直しを検討する」と答弁したことでした。
 障害者の皆さんの顔が浮かび、少しでも、今後の運動の手助けになれたかなと思った瞬間でした。

2005年2月21日 「障害者の明日を考える」シンポジウムに参加して
 20日、DPI主催で「障害者の明日を考える緊急道民シンポジウム」が札幌市身体障害者福祉センターで開かれ、私も日本共産党代表として参加しました。
 今国会に提出された、「障害者自立支援法案」は、関係者の間で大きな問題になっています。
 今後の国会審議が重要になってくることから、道内選出の国会議員に実情と要望を訴えたいということで自民、公明、民主、共産の四党代表と、厚生労働省の企画官、加えて精神障害者、身体障害者、知的障害者の代表のシンポジストが出席。それぞれの立場で、障害者福祉の現状と自立支援法案についての考え方、障害者の生活の実態、法案への意見、要望などがだされました。
 会場では、障害者や家族、関係者など約170人が真剣に聞き入りました。
 今回の法案の問題点は、介護保険と同じように、障害者に一割の利用者負担を課すものであり、わずかな障害者年金での生活を大きく圧迫するものになること。障害者の自立支援と言いながら、「支援費制度の財政破綻対策が目的ではないのか」「これでは自立支援ではなく、逆に自立を奪うものだ」と厳しい意見が相次ぎ、利用者の理解がないまま、今国会で強行することのないよう、政治家への強い要望が出されました。
 「負担増がだめなら消費税でまかなわなければ制度そのものが成り立たない」と、威(おど)しともとれる政府、与党の態度に、怒りがわきます。今後の論戦が重要です。

2005年1月31日 沖縄と北海道の心ひとつに
 1月12から14日まで沖縄・北方特別委員会の調査で沖縄へ。その後北海道にもどり、17日の郵政民営化問題調査で札幌市、北村、月形町。そして、18日から20日までは農水委員会の調査で十勝管内へと移動し、日本列島の長さを感じながら、そこにある共通した思いと違いを実感しました。
 沖縄北部地域では、土地の多くを米軍基地に使われている自治体の首長が、「国は我々のような過疎地にも成り立つような施策を考えてほしい」と、町づくりや振興策に対する悩みを話してくれました。その言葉には、一言では言い尽くせないものがありました。
 北谷町(ちゃたんちょう)では、かつて、米軍キャンプではわずか100人程度の雇用しかなかったのが、一部基地を返還されたことで民間施設がつくられ、今では1万人を超える雇用に拡大されたということです。
 基地がある経済効果より、基地返還によって生まれる経済効果の方が、地域振興にとってれだけ大きいかを考えさせられました。
 サンゴ礁の美しい島と街並みに魅力を感じ、年々観光客が増えている石垣島の市長さんは、「島に基地がないからこそ、平和であってこそ、島の魅力を発揮することができる」と言いましたが、本当にそのとおりだとうなづけるものでした。
 沖縄の米海兵隊移転の候補地として、たびたび名前が上がる北海道矢臼別や東千歳ですが、根本にある日米基地再編のたくらみを許さないために、力を尽くします。

2005年1月10日 北海道でも全学級を30人学級に
 2005年のスタートは、雪の降る中、白石神社前での、新年のあいさつで始まりました。白石区選出の市議会議員の伊藤りち子さん、衆議院3区候補の川部竜二さんといっしょでした。
 4日は宮内聡衆議院比例候補、日本共産党北海道委員会の西野委員長、青山書記長とともに、仕事始めの札幌駅前で訴えました。昨年は災害の年だっただけに、希望のもてる年にしたいとの願いを込めました。
 各団体の新年交礼会に参加し、7日は国会議員団会議で上京。その足で福島県の日本共産党の新春の集いに参加しました。
 そこで驚いたのは、福島県では今年、日本共産党も提案し要求してきた30人学級が、現在の小学1・2年生と中学1年生のみの実施から、全学級に拡大して実施することが決まったというのです。もちろん、財源は県独自のやりくり。長年の運動の成果だとよろこんでいました。
 北海道では、現在35人学級を小学1年生だけに実施していますが、2年生からは40人学級です。少子化といわれ、生徒数が減っているなかで、少人数学級はやりやすいはずなのに、経費節約のためか、あえて学校を統合し、大人数にするというのが現状です。経費を節約するというなら無駄遣いを削るべきです。引き続き北海道でも30人学級実現にむけた運動を強めなければと感じました。
 通常国会は21日に召集されますが、憲法問題、くらし・経済問題をめぐって、共産党らしい論戦でがんばる決意です。

2005年1月 「小さくても輝く」誇り胸に〜新春随想
 赤井川村は人口1300人台の小さな村です。村営の温泉があり、村民はもちろん、近隣からも観光客が訪れ、気軽に立ち寄っていきます。札幌から車で時間半もあれば行けるので、私も父母を運れて温泉に行きました。
 昨年、この村の村長さんと対談しました。ちょうど、町村合併をめぐって論議がすすめられ、赤井川村は合併せず自立の道を決めた直後のことでした。村長さんは、はじめから自分の考えを押しつけるのでなく、合併した場合としない場合のシミュレーションを示し、情報を村民に伝え、十分な話し合いの上で判断するという立場を貫いてきたと言います。「小さくても輝く自治体」のフォーラムにも参加しました。自立するには財政確立は避けて通れない。村の特徴を生かして農業と観光を結びつけ、農業体験ツアーで、じかに新鮮な野菜を食べてもらい販路を拡大する努力、緊急時に対応できる消防や救急体制を確立することなど工夫しています。
 村だからこそ、どこに誰が住んでどんな状況か、何をしなければならないかが見えてくるという話を聞きながら、国の「地方自治」の政策がいかに食い違っているかを痛感しました。
 上から全国平均で物事を判断する発想ではなく、村民の喜びや意欲から出発してこれを広げることが活性化につながり、村が活気づくということだと思います。
 群馬県の甘楽富岡農協を訪ねた時、「農業をやりたい人は誰でも担い手」と、Uターンの青年も八十歳の人も技術指導を行い、自分の作物に名前をつけて売りに出し、誇りをもって取り組んでいる姿に感銘を受けました。
 今年は日本の進路をめぐり激しい攻防が予想されるだけに、原点を離さずがんばります。(「しんぶん赤旗」北海道版/2005/01/05より)

2005年1月1日 地域住民と国会を結んで
 昨年は、あいつぐ台風、地震災害に見舞われ大変な年でしたが、全国で被災者救援にとりくみ、共産党と地域住民のあたたかい絆も生まれました。
 今年は一日も早い災害復興のため力を尽くします。
 国会は、小泉「構造改革」で庶民にさらなる痛みを押しつけ、医療・介護、福祉の国民負担増。消費税増税うごきも高まっています。自衛隊のイラク派兵延長と憲法改悪など、悪政を許さない国民運動の大波を北海道から起こしていきましょう。

2004年12月6日 国会報告会で北海道のみなさんの心にふれて
 12月3日(金)、53日間の会期を終え閉会となった161臨時国会を後に、その足で北海道に帰り、夜、市民会館の報告会に参加しました。
 12月の忙しい時期にもかかわらず、各団体のみなさんや、後援会の方々が足を運んで、切実な要望を寄せてくださいました。みなさんの暖かい心にふれ、とても励まされました。
 翌日は札幌パルコ前で、宮内聡衆議院比例候補とともに、街頭から国会報告と今後のたたかいへの共同を呼びかけました。街角のショーウィンドーには、クリスマスの飾り付けがされており、「師走」を実感しながらの訴えでした。
 国会に出てから三年が過ぎ、四年目。今度の国会は、今までのどの時とも違った緊張感で取り組んできたように思います。
 国民の要求はますます切実であり、日本共産党議員団への期待も高まる中、これにどう応えていくのか。マイナスをプラスに変える、「逆バネ」を身につける訓練の場となったと感じています。
 確かに、議員団が小さくなって、様々な制限が加えられていますが、逆に、攻勢的に質問時間を確保したり、限られた時間の中でも効果的で鋭い質問にする。そのための調査や準備など、次への飛躍のために、一人1人の議員が自らの挑戦としても精一杯取り組んできました。
 来年の通常国会は正念場です。みんなさんの熱い期待に応え、がんばる決意です。

2004年11月15日 東北「草の根シンポ」パートに参加して
 11月6日、東北ブロック初の試みとして、「草の根シンポ」の一回目が仙台市で行われました。衆院議員の高橋ちづ子さん、参院議員の大門実紀史さんと私の三人がそろうのはこれがはじめてです。パートUは「農業問題」で、秋田で開催します。
 今回は、「建設・大型店」問題をテーマに、午前中は建設問題、午後からは大型店問題と、わけて行いました。どちらも切実な問題であり、国政と草の根からの連携が求められています。
 企業倒産があいつぐ中で、建設工事代金の不払い問題はあとをたちません。建設業法にもとづいて、ルールを守って解決させるにはどうするのか。これまで様々なとりくみをつみ重ねてきた埼玉土建一般労組の経験は、現実に相談をうけたり、直面して、困っている人たちに大きな励ましになりました。
 また、大型店問題では、「まちづくり三法」(大店立地法、中心市街地活性化法、改正都市計画法)がつくられたものの、機能せず。大型店の出店ラッシュがつづいているもとで、まちづくり条例制定にむけた提言、深夜営業規制条例、中小企業振興条例など、各地のとりくみも紹介され、たいへん有意義でした。
 苫小牧市でも23日に「街づくりシンポジウム」が計画されています。「消費税」「憲法」「食と農」など、来年の通常国会を見通して、様々なテーマでとりくみ、運動を発展させましょう。

2004年10月25日 先制的に基地移転反対の声を
 在日米軍基地の再編問題が浮上しています。米軍はワシントン州の米陸軍第一軍団司令部を神奈川県の米軍キャンプ座間に移転させる計画。「沖縄の負担軽減」を口実に、米海兵隊を沖縄から移転する計画をめぐって東富士演習場や矢臼別演習場、東千歳駐屯基地などの名前があがっています。
 9月には米特殊部隊の名刺をもつ人物が酪農家や農業委員会会長宅をまわり、海兵隊についての意識調査を行っているとわかり、外務省と防衛庁を呼んで、事実確認を急ぐよう要求しました。
 10月17、18日は宮内聡さんや小泉親司・党基地対策委員会事務局長とともに矢臼別演習場周辺の酪農家や住民と懇談。関係自治体である別海町、浜中町、厚岸町、標茶町の四町長と懇談し、意見や要望を聞きました。
 「はじめの頃は、海兵隊への監視が厳重だったのに、今では警備の人数も削られている」「今までと違って米軍が常駐することになれば、沖縄で起きているような婦女暴行事件や住居侵入事件など起きないともかぎらない」「経済効果で町が潤うなどという話しではない」など、不安や、怒り、阻止に向けた決意の声が出されました。
 別海町の佐野町長は、「矢臼別での米軍訓練を固定化するなということで三町が一致している」と言いつつ、「まだ国からはいっさい話しがないが、はっきりすれば住民と相談し態度を明らかにする」と語りました。
 先制的に住民の世論を広げ、断固反対の意思を示しましょう。

2004年10月4日 台風災害の教訓生かし、国の対策の更なる強化を
 今年ほど台風が続けて日本列島を縦断し、全国で大きな被害をもたらしたことはありません。
7月下旬から9月にかけて、台風10号、11号、15号、16号、18号、21号と、ほとんど間をおかず、連続して上陸し、そのたびに死傷者や行方不明者、たくさんの犠牲者と被害をもたらしました。
 北海道では、かつての洞爺丸台風以上といわれ、風速50bともいわれる18号によって、広範囲にわたる被害を出しました。
 とりわけ、農林漁業の被害は大きく広がりました。私も空知の岩見沢、美唄、上川地方の比布、当麻町、胆振の壮瞥、洞爺村など、宮内聡道対策本部長らとともに被害調査に入り、その傷跡に台風の威力を実感しました。「今年は天気にめぐまれていたので収穫を楽しみにしていたのに…」と、肩を落とす農家の人たちの姿に、胸が痛みました。
 9月21日、農林水産省の台風被害対策本部などに対し、宮内聡国会議員団道事務所長、花岡ユリ子道議、渡辺正治余市町議らとともに、申し入れを行いました。被害状況はまだ掌握途中だったので、どのような形で救済できるのか、検討中ということでした。 
 こうした自然災害に対して、個人の努力でやれることは限られています。国が責任をもって救済することは当然ですが、現行法の完全な活用とともに、それにとどまらない災害対策・補償の充実をもとめていかなければなりません。

2004年9月13日 基地閉鎖、撤去こそ県民のねがい
 9月3日、米軍ヘリ墜落事故の現地調査で市田書記局長、赤嶺、仁比両議員とともに沖縄県宜野湾市に入りました。墜落現場の沖縄国際大学のある所は、住宅密集地であり、すぐ近くには保育園も小学校もあります。
 大学と道路をはさんで向かい側の中古車販売店の経営者は、自分の上にヘリが落ちてくると思い死の恐怖を味わったといいます。
 墜落した場所は大学の学長室の横であり、たまたま学長は席を立っていたために難を逃れただけで、人身に害がおよばなかったのは奇跡だと言っていました。
 事故直後、米軍は、黄色いテープをはりめぐらして、市民を中に入れさせず、ヘリコプターの残がいや事故原因の分析のためと言って、校内の焼けた土なども持ち帰ったと言います。
 「自分の大学が壊されているのに中に入ることもできないというのはどういうことか」と怒りをあらわにしながら、大学関係者も市民も共通の思いは、「基地の閉鎖であり、安全が確認されようとされまいと、恒久的閉鎖が要求だ」と私たちに訴えました。
 九月七日の参議院沖縄北方特別委員会で、さっそく現場の声をもとに、川口外務大臣に質問をしながら、日本の主権がこれだけおかされているのに、アメリカにものを言えない日本政府の態度に怒りを覚えました。

2004年8月23日 初めて優勝旗もたらした駒大苫小牧高校に拍手
 まさに目の覚めるような快挙でした。
 北海道全体が、心を躍らせてその熱戦に注目し、勝利を勝ちとった選手のすばらしい戦いに拍手喝采、喜びを共有したひとときでした。
 「本当に優勝したの?それにしてもすごい」こんな声もあいつぎました。いままで、北海道は冬は雪にうもれてグランドでの練習ができない期間が長いので、勝てなくても仕方がない、途中で敗退しても、よくそこまでがんばったというのが、正直なところだったと思います。しかし、がんばれば乗り越えられない壁はないということを示す勝利だったと思います。
 香田誉士史監督の「道産子ががんばった、生徒はのびのびと思い切ってやってくれた。最高です。ありがとう」と涙を流しながらのコメントに思わずもらい泣き。たしかに一試合一試合勝進むごとに、チームは鍛えられ強くなって、一人ひとりが成長していると感じました。
 なぜ、こうした戦いができたのか、これから分析されるでしょう。昨年夏の甲子園大会と秋季全道大会決勝の戦いでの敗北、その教訓を糧に練習を重ね今夏実らせたということもあるでしょう。そこにどんな努力の過程があったのか注目したいと思います。
 こうした目の覚めるような快進撃を、政治の分野でも切り開きたいと強く思いました。

2004年7月26日 自然環境問題の調査とフォーラムに参加して
 7月15、16日と、「ラムサール条約登録湿原を増やす議員の会」の一員として、サロベツ湿原や浜頓別のクッチャロ湖など視察に参加しました。
現在、日本では13ヵ所が湿原に指定されており、うち道内は釧路湿原やウトナイ湖など六カ所が指定されています。当面、さらにサロベツ湿原などを含め二十二ヵ所まで拡大する計画で、関係自治体からの要望や問題点などを聞くことができました。あらためて北海道の自然のすごさを感じてきました。
 7月24日は、旭川市で「森フォーラム〜大規模林道を考える〜」集会に、宮内聡さんとともに参加、自然保護の運動にたずさわる方々と交流することができました。
森林を壊し、ナキウサギの生息地を直撃する大規模林道は、それ自体、昨年の日高地方をおそった大水害を拡大する要因にもなっていた。林道崩壊のすさまじい実態をおさめたビデオの報告でも明らかになりました。
「森林の振興と災害時の対策のため」といわれた道路はまったくあべこべの状態になっていました。そもそも林道とは、森をこわさない必要最小限の小規模の道であることがのぞましく、大規模なものは林道とは言わないというのです。
林野庁からの天下りした幹部の会社が、中心になって工事をすすめようとしていますが、今後、さらに現地を調査し、国民運動と結んで、再検討を求めていきたいと思います。

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